第7話 手の中の幻
集中講座のレポートに忙しく、春樹が笹原家を再び訪れたのは3日後だった。
八重はやはり床に着いたままだったが、春樹を見ると途端に破顔し、招く様に手を伸ばしてきた。
その手をしっかり握ってやると、春樹の中に八重のこの数日間の不安と今この瞬間の安堵、そして目の前にいる息子に対する愛情、愛おしさが堰を切った水のように注ぎ込まれてくる。
いったい、人は何故こんな芸当をやってのけるのか。
悲しみを含んだ40年余りの事実を掻き消して、幸せな記憶と、そして今目の前にある偽りだけを紡いで微笑んでいるこの老女。
そしてその幻のおこぼれを拾い、幻の愛情を取り込もうとしている情けない自分がいる。
安堵したらしい八重の脳裏では、まだ小さかった頃の光彦の背中を追う場面や、甘ったれで、いつも泣いていた彼を抱き留める場面がシャボンのようにフワリと漂っては消えた。
残酷なことに、そこに早苗の姿は無く、そして高校生の光彦の面影は、あの写真の少年ではなく、今目の前にいる春樹に、すっかり成り代わっていた。
自分は八重の記憶を歪め、亡き光彦をも冒涜しているのだという痛みが、鈍く胸を刺す。
けれど、自分から手を離すことができなかった。
八重に触れている間だけ、包まれるような安心感の中に居られた。
独りではないのだと思うことができた。
「きつねのお面は、やっぱりまだ出て来んの?」
春樹の手を離した八重は、横になったまま小さく春樹を手招きした。
春樹がクイと八重の方に首を伸ばして近づくと、八重は筋張った手で、春樹の頭を優しく撫でた。
小鳥に触れるように優しく、そしてやがて、子をあやす時のようにポンポンと軽く拍子を取る。
「もう ええよ。探さんで、ええよ。ごめんやったな。もう、お友達と遊んできい。お母さん、もう ええから」
やがて疲れたのか、その手をゆっくり下ろし、八重はうとうとと瞼を瞬きはじめた。
そして、うわごとに変わる。
「お友達と、遊んできい。あんたが来るの ほらそこで お友達 待っとうよ。ずっと、あんたのこと 待っとうよ。 はよう、お祭り 行っておいで」
それきり、静かに寝入ってしまった。
「持病の薬がきつくなってね。この頃すぐ眠るのよ。春樹君、こっちにいらっしゃい。ありがとうね」
襖をそっと開けて言ってくれた早苗を、見えないように涙を拭ったあと、春樹は振り向いた。
「はい」
何の涙か分からず少し困惑したまま、春樹は早苗について居間にもどった。
テーブルの上には、冷えたラムネとグラスが置かれている。
「お母さんね、光彦が好きだから沢山ラムネを買っておけってうるさいのよ。冷蔵庫にはまだ半ダース入ってるわ」
早苗は苦笑する。
小さな頃、春樹自身もこの不思議な形のラムネの瓶が好きで、兄の圭一にビー玉の栓を抜いて貰うのを楽しみにしていた。
飲み終わったあとこっそり庭で圭一と瓶を割り、ビー玉を取り出しているのを母親に見つかって叱られた日のことが、鮮明に思い出される。
けれどもどんな懐かしい家族の思い出も、もはや春樹には苦痛でしかなく、すぐにその記憶を頭からふるい落とした。
家族の死の真相を知ってしまった春樹には、家族と過ごした日々を穏やかに思い出せる日が再び来るとは、到底思えなかった。
「春樹君の大学も、もう夏休みでしょ? 下宿生だって言ってたし、実家の方で親御さん達、待ってらっしゃるでしょう? うちの母にかまわず、帰ってあげてね。あの人の我が儘に付き合ってたら、たいへんよ」
早苗が自分も冷えた麦茶を飲みながら笑う。
「いえ。家族はいません。実家もないんです。高1の時、火事でみんな無くなってしまいましたから」
家庭の事情だけはいろんな場面でもう飽きるほど説明させられ、言い慣れてしまっていた。
特別感情も込めず、サラリと言ってのけた春樹だったが、早苗は青ざめて固まった。
「まあ……」
寒々しい沈黙が生まれ、春樹は言ってしまった事を後悔した。
同時に、あえて言わなくてもいいことをここで言ってしまった自分の内心に気づき、辟易した。
無意識だと思ったのは欺瞞なのかもしれない。
不憫な子だと思われるのは何よりも嫌いな癖に、自分の悲しみを分かって欲しいという甘ったれた願望が、この胸の中に確かにあるのだ。
「気にしないでください、5年も前のことですし。それにもう親を頼る年齢じゃありませんから。ラムネ、ごちそうさまでした」
何か言おうとする早苗を遮るように、カラリと笑って春樹は玄関に向かった。
見送ってくれた早苗が、門扉の前でいつもと違う面持ちのまま頭を下げてくれたのが、胸に重くのし掛かる。
違う。
自分は頭を下げられるような人間じゃない。
ただ、自分にないものを拾い集めようとしているだけなのだ。 八重さんを騙して。
◇
2日後の夕刻。
午前中ですっかりゼミも終え、友人に誘われている飲み会に行ってみようかと腰を上げた所に、メールの着信があった。
隆也かと思って慌てて開いたが、塚本からだった。
隆也は夏みかんを届けてくれたあの日から全く音沙汰がなく、メールを送ってもまるで返してこない。たぶん実家にいるのだとは思うが、こんな事は初めてだった。
あの日怒らせてしまったのは、どうやら間違いないらしい。
小中学生でもあるまいに、その事に案外大きなダメージを受けているらしい自分に気づき、小さくため息をつきながら塚本のメールを読む。
《よう春樹! ゼミも終わって暇だろ。今宵、夏祭りでしっぽりデートなんてどう? 人肌が恋しくないか?》
いつもなら無視する塚本のおふざけメールだったが、春樹はじっとその字面を見つめ、そしてすぐさま返した。
《どこの祭り? 露店、いっぱい出る?》
《お! 来るのか? 俺、知り合いの露店の手伝いしてるんだ。たこ焼き屋。死ぬほどタダで食わしてやるよ。場所は-----》
春樹はその神社の名を頭に入れるとアパートを飛び出した。
まだ空は明るかったが、その場所に着く頃は程良く暮れており、一歩鳥居を入ると境内の方から聞こえてくる祭囃子や提灯、露店の灯り、香ばしい匂いが夏祭り独特の雰囲気を演出していた。
そして、ひしめき合うように行き交う人々の波。
浴衣や軽装の若者、子供が、狭い通路に溢れかえっている。
長袖シャツを着てこなかったことを心底後悔したが、春樹はその人々の波の中に飛び込み、体を交わしながら奥へと突き進んだ。
綿菓子、りんご飴、焼きとうもろこし、ヨーヨーつり、当てもの屋。
懐かしい屋台を素通りしながら突き進み、春樹はようやく目指す店を見つけた。
お面をボード一に貼り付けた玩具屋台だ。
春樹の知らないアニメキャラクターのプラスチック製の面が色鮮やかに並んでいたが、そういう玩具は今の子供達に人気がないのか、その店の前にはぽっかりと空間ができている。
そして、やはり懸念したとおり、キツネの面はその中には無かった。
予想はしていたが、やはり落胆は大きい。
肩をおとしながら、店先に並べられている駒やけん玉、ビー玉、紙風船などの、昔ながらの玩具を眺めていると、それらに埋もれるように座っている小柄な老人の手元に目が留まった。
表に並んでいない材質の面のゴムの部分を修理している。表に出ていない面が、もしかしたら他にもあるのかもしれない。
春樹は俯いたままの老人に尋ねた。
「きつねの面って、ありますか?」
「ないね」
老人は即答したあとゆっくり顔を上げ、にやりと笑った。
「あとひとつしか」
老人がゴソゴソと木箱から取り出したのは、和紙のような素材で出来た、まさしくきつね面だった。
可愛いと言うよりも、不気味な笑いを浮かべていて、子供には少し怖いかも知れない。
けれどそれは、八重の遠い記憶の中にあったきつね面と、とても良く似ている。
何よりもそれが春樹にとって、胸が熱くなるほど嬉しかった。
「面職人の張り子だよ。売り物じゃないんだけどな」
「売って貰えないでしょうか」
「売りもんじゃないんだって」
「売ってほしいんです」
「どうしてもっていうんなら、ゆずらんでもないが」
「どうしても」
今度は春樹が即答すると、老人はニコリと笑い、その面をポンと春樹に手渡してくれた。
「金はいらないよ。どうせ昔の売れ残りだ。箱で黴びるより貰ってもらった方がこいつも嬉しいだろうし」
派手な化粧を施した白狐の面は春樹の手にしくりと馴染み、長い間探していた失くしものに出会えたような、そんな懐かしさが胸に広がる。
お母さんは、喜んでくれるだろうか。
よく見つけたねと、褒めてくれるだろうか。
まるで小学生の子のようなそんな幼い願望に、春樹の心は大きく弾んだ。