第6話 眩暈
「なんで……」
看護師との接触を言い当てた塚本を、春樹は驚愕の目で見つめた。
「何で分かったかって? だって、顔にでっかく書いてある」
「ふざけんな!」
「怒んなよ、余裕ないなお前。じゃあ、ほら。自分の腕見てみろよ」
塚本の視線の先には半袖シャツから覗く春樹の右腕があった。
その内ひじは僅かに内出血し、青紫に変色している。気づいてはいたが、気にも止めていなかった注射痕だ。
恥部を見られた気分になり、春樹はそっと抱き込むように腕を隠した。
「看護師泣かせの細い血管してんのか、触れられてる間に動揺して、その腕を激しく動かしてしまったのか。どっちにしても、他人の肌に触れるのをあんなに怖がるお前が医者に行くってのは、そうとう参ってたってことだろ? そこで一番苦手な女に、脳の中飛び込まれたんじゃ堪んないだろ。災難だったな」
「そんなんじゃないよ」
平静を装おうとしたが、声が尖った。
この男の観察眼や洞察力は並はずれていて、時々別の能力者ではないのかと疑ってしまう。
好奇心に満ちた目が癇に障る。心を許して良いのか悪いのか、判断が付かない。
触れてみないと本心のまるで見えてこないこの塚本という男を、春樹は改めて厄介な存在だと感じた。
「2カ月前のあの日、もう逃げないって言ったんじゃなかったけ?」
意識的に反らした春樹の視線を引き戻すように、塚本がこちらを見つめてくる。
春樹は時間を気にするふりをして手元の携帯に目を伏せた。
「ああ、言ったよ」
「それにしちゃあ、2カ月前よりも弱腰になったように思えるけどな。ちょっと他人の内面見たくらいで弱ってたら、これから先どうしようもないぞ? 背負い込む必要のないものまで背負い込んでどうすんだ」
返事もせず、春樹は立ち上がった。
そんなことは春樹自身が嫌になるほど痛感していた。塚本に言われるまでもない。
この能力がどんなものなのか、どんなに感情をかき乱されるか知りもしないくせに、と。
湧き上がる苛立ちが抑えられなかった。
できるならば全て脱ぎ捨てたかった。怒りも苛立ちも悲しみも。この役立たずの体ごと、全部。
「もう行くのか?」
「講義が始まる」
「逃げたって意味ねえよ?」
「何が」
「あんた自分のことなのに、目を反らしてばっかりだ。だから怖くて仕方ないんだろ。もっと追求して見ろよ、その力。どうせ逃げ切れないんだからさ」
「もっとこの力研究して利用しなきゃ、って? そんなんじゃせっかくの能力、世の中の役に立てないって? また犯罪捜査にでも借り出すつもり?」
春樹は小さく嗤った。嫌な嗤いだと自分で感じる。
ずいぶん前にも、この男とこんなやり取りをした記憶がある。
あの頃より今のほうが卑屈になってしまったように思えて、自分にうんざりした。
「そんなんじゃ一生、女も抱けないって言ってんだ。なんなら男でもいいけどさ。ボッチで生きる気?」
逆にニコリともせずに、塚本は座ったまま春樹を見上げた。
「横川祐一は、あれからすっかり品行方正のお坊ちゃんだ」
「横川……祐一」
いきなり飛び出してきたその名に、春樹は目を見開いた。
心の隅に追いやった記憶が、痛みと共に蘇る。
2カ月前、2人の人間を死に追いやっておきながら、まったく法に捕らわれる事なく、そして罪の意識など欠片も持ち合わせずに何食わぬ顔で日々を過ごしている13歳の少年だ。
彼に触れたときの、倫理観の崩壊していくような言葉にできない不快感、そして犯行の瞬間の映像が生々しく思い出され、鳥肌が立った。
春樹だけが覗き見てしまった、正常でない人間の狂気、罪悪感を伴わない犯罪の快楽。今その名を聞いただけで吐き気が込み上げてくる。
忘れようとし、逃げていたことを、改めて実感した。
「思い出させて悪いけど、あの悪魔は俺がずっと監視してるよ。ずいぶん甘やかして餌やって、今じゃかなり俺に懐いてきたからさ。そのうちポロッと犯行の自白でもしないかって期待してんだけど、やっぱり手強いわ」
「……あれからずっと、祐一と?」
塚本は頷く。
「警察は一応春樹の供述を元に、何度か祐一を呼び出していろいろ探りを入れたみたいだけど、証拠なんてものはもう、死んだ弟や松岡の記憶と一緒に消えちまったし、祐一は見事に大人しい仔羊を演じ続けるし。疑わしきは罰せずで、無罪放免。辻褄はすべて合ってるし、知っての通り被疑者(松岡)死亡で捜査終了さ。春樹が伝えたダイイングメッセージだけで警察がそれ以上混ぜ返す訳もないしな。だけどさ……」
塚本は歯痒そうにテーブルの足をドンと蹴った。
「俺らは悪魔が誰なのか、知ってる。春樹が死にものぐるいで掴んだ真実だ。それを絶対無駄にしたくないと思ってる」
春樹は塚本の悔しそうな顔を、不思議な気持ちで見下ろしていた。
一体、どれが本当の顔なのだろうと思う。
好奇心に満ちて春樹をからかっている時か、それとも、今か。
「今でもあの事件にお前を巻き込んだことは、心底済まないと思ってる。パニック障害は一度やったら、しつこく付いて回る。今も辛いのは、よく分かってるつもりだ。
だけど俺は、逃げないで欲しいと思ってる。人の感情からじゃなくて、自分からだ。自分をもっと知って好きになってやって欲しいと思ってる。人のどんな感情が飛び込んできたって、歪んだり欠損したり腐ったりする訳じゃない。錯覚なんだ。自分をもっと信用して好きになってやれよ」
いったい何を言い出すのか、という思いと、この2カ月、この男がそんなことを考え、行動していたのかという驚きとで、春樹は返す言葉を見つけられずにいた。
取り敢えず小さく頷いてはみたものの、何かとてつもなく恥ずかしいことを言われたような気がして、腹が立ってきた。
結局最後は、首を横に振る。
「もういいよ。自分の問題だから」
そう言って、背を向けた。
塚本の出した課題は今の春樹にはとてつもなく遠い理想だ。
流れ込んでくる意識を大らかに受け入れられる様になれるのなら、何を代償にしてもいい。
知られれば必ず忌避される能力を持つ自分を、好きになる日が来るとも、到底思えなかった。
塚本の助言からも、逃げ出した気がした。
「春樹!」
あまりに大きく響き渡った声に振り向くと、塚本が再び真剣な顔でこちらを見ていた。
まだ何か言い足りないのだろうか。
「何」
「あのさ、お前に訊くのもなんなんだけど……」
「だから、何」
「一昨日、俺のアパートに差出人不明の荷物が届いてさ。大量の夏みかんが入ってたんだ。誰の陰謀か、知らねえ?」
「夏みかん……」
誰の陰謀か、知ってる。
けれど少しばかり眉間に皺を寄せ、こちらを見ている塚本をしばらく眺めたあと、春樹は首を横に振った。
「さあ」
学生会館を出た途端、鋭く尖った白昼の陽射しが容赦なく春樹を射て、軽い眩暈を誘った。
グダグダと交わしたように思えた塚本との会話がその瞬間、一塊に結合し、ひとつの解となって春樹の空っぽの胸の中にコロンと転がった。
そうか自分は単純に、自分自身が嫌いなだけなのだ。この力のせいだと思いたがっているだけで。
自分という脆弱で厄介な存在をどうしようもなく持て余してしまっているのだ。
この先続くかも知れない膨大な時間と共に。
今更そんなことに気づく自分がまた滑稽な気がして、春樹は力なく嗤った。