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第5話 優しい記憶と僕の罪

その2日後の朝、春樹は早苗にメールを送った。

《大学へ行く前に、少しだけお邪魔してもいいでしょうか》

大歓迎よ、とすぐさま返事が来て、言葉通り早苗は快く春樹を迎えてくれた。

そんなに冷やしていないはずなのに家の中はとても心地よく、不思議なほど呼吸が楽になる。


「友人からの頂き物ですが」と、隆也からもらった夏みかんを10個ばかり渡すと、早苗はまるで特別なプレゼントをもらった女の子のように喜んでくれた。

教師をしていたという早苗の凛とした空気と溌剌とした物言いが、春樹には妙に懐かしく、心地よかった。


「お母さんね、昨日の夜ちょっと熱を出したんで、とこで休んでたんだけど、今はもう平気みたい。春樹君を連れて帰ってきた晩から、光彦、光彦って、うるさいのよ。呼びすぎて熱を出したのかしらね」

笑いながら早苗は居間の隣のふすまを開けた。

春樹をそっと隣室へ促すと、自身はまた居間の方にスイと消えてしまった。


6畳ほどの清潔な和室には布団が敷かれ、薄い肌布団を胸に掛けた八重が横になっていた。

気配で振り向いた八重は、春樹を見るなりパッと表情を明るくして笑った。

満面の笑みだったのに、横になっているせいか更にその体が小さく感じられ、春樹は少し慌てた。


「光彦。今日は学校、休みなんか? お母さんな、光彦がおらんようになった夢見てしもうてね。夜中泣きよったんよ。何であんな夢、見たんやろうね」

白く肉の落ちた手をいっぱいに春樹の方に伸ばしながら、八重は同時に起きあがろうとする。けれど体はついて行かず、手だけが空を切った。

「ああ、寝てていいよ、お母さん。熱出したんだろ? 僕はどこにも行かないから、安心して眠るといいよ。学校も夏休みに入ったしね」


言うそばから胸が痛んだが、その老女を騙している罪悪感は、近寄ってその手を掴んだ瞬間から、溶けて消えた。

さらりと乾いた八重の手からは、2日前と同じ包み込むような柔らかい愛情が滲み出し、春樹はしばし、その泉の中に身を浸した。

悲しかった夢というのも、春樹の顔を見た途端、薄らいで消えてしまったようで、今彼女の中にあるのは、目の前の愛おしい息子の顔と、しゃぼんのように膨らんでは消え、また現れる光彦の幼い日の思い出達だけだった。

高校生の光彦の面影は、いまやすっかり春樹に書き換えられ、八重の心の中に取り込まれた春樹は、自分が春樹なのか光彦なのか、次第に分からなくなってくる。

人が何かを経験して記憶するのと同じように、春樹の脳の情報も、こうやって他人の記憶を受け入れるとき、影響を受けて変化してしまう事がある。


他人の思考が流れ込んでくる際の脳の拒否反応は僅かにあったが、それ以上に脳内を麻痺させてくれるほどの柔らかな幸せを今、春樹は存分に感じていた。


「夏休みに入ったんかいね。そしたらすぐに、峰妙さんの神社祭りがあるねえ。そういやあ、あんたのお面、やっぱりあれから出てこんの?」

春樹の手を握った八重の手に、ほんの少し力が入る。

それは何? と訪ねるまでもなく、八重の記憶が泉のように湧き出し、春樹の中に流れ込んできた。

夏祭り。幼い光彦の泣き顔。光彦が失くしたまま見つからなかったキツネの面。

春樹は八重の中に仄かに浮かんだ記憶を、紡いでいく。

脈絡のない切れ切れの記憶の中に、八重の小さな後悔があった。

〈ごめんね、光彦〉

けれどその前後の細かい経緯は、順序立てて伝わっては来なかった。

しゃぼんの泡の思い出たちが、沸き立ちそして消え、また現れる。万華鏡のような八重の心の中。


「うん、そうだね、また探してみるよ、キツネのお面」

半信半疑で春樹がそう言うと、八重は皺の寄った目元を更にしぼませて「見つかると、ええのになあ」と笑った。


昨夜熱を出したと言ったが、その体温は少し不安になるほど低かった。

春樹はそっと手を放し、肌布団を胸元まで上げてやった。

今日は心なしか八重が疲れているように感じる。長居はやめておこうと、春樹は立ち上がった。

「また来るからね。ちゃんと休んでね、お母さん」

「また来るっちゅうて、あんたの家やのに。おかしい子」

眠そうな声で笑う八重を残し、春樹は部屋を出た。


「キツネのお面? また古い話を出してきたのね、お母さんは」

帰る前に面の事を尋ねると、早苗はかいつまんで説明してくれた。きっとこの親子間で、何度も語られたエピソードなのだろう。


「光彦が小学校3、4年生の時だったかな。初めて友達同士で、夏祭りに行くのを楽しみにしてたのよ。だけどその日の昼間に、お母さんの出しっぱなしにしていた刺身包丁を足の上に落として、怪我しちゃってね、行けなくなったの。光彦は、末っ子の甘えん坊だったから、泣いて泣いて、それでも行くってダダをこねて、大変だった。お母さん、可哀想に思って、1人でお祭りに行って光彦が喜びそうなモノをたくさん買って来たんだけど、綿あめも駒もトウキビもお面も、見向きもしない。

『せっかく買ってきてくれたのに!』って、お母さんの居ないところで私が光彦を叱ったら、どうにもムシャクシャが収まらなかった光彦は、その場でキツネのお面を踏みつぶしちゃったの。

幸いお母さんにはその事知られずに済んだし、本人も後になってもの凄く反省して、『お面、なくしちゃった、ごめんなさい』って、ちょっと嘘を交えて謝ってくれたんだけど」


怪我させたことを今でも悔やんでるから、そんな小さなことが母の記憶の奥に引っかかってるんでしょうね、と、早苗は寂しそうに笑った。


早苗が言うように、特に悲しい話ではなかった。

ただ、息子の探し物がひとつ見つからなかっただけの、どこにでもある思い出だ。

けれど何故か春樹の中で、モヤモヤとした落ち着かない感覚があとを引いた。

泣いて母親を困らせたのも、あのキツネ面を踏みつぶしたのも、この自分のような気がして堪らなかった。


「また来ます」

春樹が玄関先で頭を下げると、早苗は心苦しそうに微笑んで、「嬉しいけど無理しないでね」と、送り出してくれた。

いえ、これは自分の我が儘なんです。

そう心の中で呟き、春樹は大学に向かった。


        ◇


夏休みに入った大学の構内は、気が抜けたように学生の姿がまばらだった。

春樹の学部の友人達もほとんどが下宿生であり、8月にはいると生活費節約のため、早々に実家に帰って行った。

お盆あたりまでは職員も事務員も在中しているが、顔を出す学生は春樹のように特別講義を受講している者達くらいだ。

単位は余裕で足りていた春樹だったが、途方もなく長い休みを埋めるために、幾つか講義を選択していた。


「おう、春樹じゃん。やっぱり俺って凄いね。今日はここでお前に会えそうな気がしてたんだ。なにか履修?」

学生課のラウンジでボンヤリ時間を潰していた春樹の背後から声を掛けてきたのは、塚本だった。

この男は相変わらず、春樹の前に頻繁に現れる。

いつの間にか春樹の呼び方が「天野」から「春樹」に変わって、馴れ馴れしさにも拍車がかかった。

真夏でも黒ベースの服しか着ないのは何かのポリシーなのだろうか。

今日も190センチの長身を、ピッタリとしたダークグレーのパンツと光沢のある黒シャツで包んでいる。

悪い奴ではない事は充分に分かっていたが、隆也のように全面的に気を許せる友人ではなかった。

2カ月前の事件に春樹を巻き込んだ事を恨みに思っているわけではないが、ストーカーまがいの行為によって春樹の能力を暴いたことは、今でも少しばかり腹立たしかった。


「……集中講座をいくつか」

「夏休み、どっか行くの? バイト?」

訪ねながら塚本は春樹の正面に座る。

同時にドサリとテーブルの上に置いたのは、図書館で借りた資料だろう。

意外と節約家であることも、趣味で小説を書いていることも、触れて情報を読み取るまでもなく、本人がべらべらと話してくれた。けれど特にほしい情報ではなかった。

出来るならば、春樹の忌まわしい力を知っているこの男と、関わり合いを持ちたくなかった。


「講座が終わったらすぐにバイト探すよ」

「ふうん。接客とか、レジとかはダメだな」

塚本は口の端をきゅっと上げ、続けた。

「他人の肌に触っちゃうからさ」

春樹はわざと聞こえない振りで交わし、視線を目の前の男から外した。

挑発になど、乗りたくもなかった。


「ご機嫌ナナメだな。体調、まだ相当悪いんだろ。それとも春樹の腕に注射した看護師の、ちょっと重い悩みを呑み込んじゃったせいかな?」

「……え」

青ざめて視線を戻した春樹を見つめながら、塚本はため息まじりの笑みを浮かべた。

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