第4話 病
「あぢーーっ!」
叫びながらドサッとローテーブルの横に夏みかんの袋を置いた隆也は、まるで自分の部屋の如くクーラーのリモコンを拾い上げ、スイッチを押した。
「速冷、風速最強!」
最低温度に設定したあと、やっと満足げにドスンと春樹のベッドに倒れ込む。
「このクーラー据え付けの旧式だから、そんなに冷えないよ? 窓開けようか?」
苦笑しながら春樹が言うと、隆也は首を横に振りながらベッドから床に滑り降りた。
「蝉の声がうるさいから開けるな。大体、なんだってアパートの横にこんな蝉の成る木があるんだよ。昼寝もできやしないだろうが」
「あいにく、部屋探しの時はまだ蝉は土の中だったからね。ここの蝉がこんなに桜の木が好きだとは思わなかった。でも、窓のそばにでっかい木があると落ち着くだろ? 木陰ができるし。だからここに決めたんだ」
春樹は笑いながら、ガラス越しに青々と葉を茂らせる桜の大木を見た。
この地方に多いアブラゼミの声は結構耳障りなダミ声で、隆也の言うとおり窓をきっちり閉めていても、かなり賑やかに聞こえてくる。
安普請の木造アパートだから仕方がない。
蝉たちは、夜が明けると同時に騒ぎ立て、毎朝きっちり春樹を起こしてくれる。寝不足の体には、少しばかりありがた迷惑な目覚ましだった。
けれど、生まれ育った家の窓から見えたのと同じ桜の木が、こうやって眺められるこの部屋が、春樹は好きだった。
もうすでに実家と呼べる場所もない春樹にとって、事実上ここが唯一の家なのだ。
「病院に行ってたのか?」
隆也の唐突な問いに、冷えた麦茶をテーブルにトンと置いた春樹の手が止まった。
「まさか。なんで? 元気だし」
笑いながら取り繕うと、隆也は先ほどと同じ微妙な時差を作ったあと、「ふーん」と小さく返しながら、夏みかんの紙袋に手を突っ込んだ。
大ぶりな果実を三つほど取りだして、テーブルに並べていく。
鮮やかな山吹色があまりにも眩しくて目にチカりと刺さり、春樹は視線を逸らした。
けれどもう、さっきほどの悲しみや吐き気はぶり返すことはなかった。
大丈夫。看護師の苦痛の幻影は、少しずつこの身からも消えて行ってくれるに違いない。
願うようにそう思った。
「なあ、大学夏休みに入っただろ? 春樹はどうすんの? この休みの間」
隆也がテーブルの上で夏みかんを弄びながら訊いてきた。
「明日から一週間、集中講座2本入れたから」
「一週間だろ? そのあとは?」
「ゼミの仲間に旅行誘われてるんだけど、まだ返事してないんだ。どっちにしても、バイトは探さなきゃと思ってる」
「どっちもやめとけ。そんなの無理に行かなくてもいいだろ? 体調悪そうだし」
「どこも悪くなんてないよ」
「またまた」
「何でだよ!」
「俺の実家に、一緒に帰らないか?」
唐突に言われ、体調についての反論をする勢いを削がれたが、すぐに隆也の意図が読めて、別な意味で気が重くなった。
そういうことで、今日、訪ねてきたのか、と。
「なんで僕が一緒に帰るんだよ。おばさんビックリするよ」
「まさかまさか。春樹だったらおふくろ大歓迎さ。いっつも春樹君も連れて帰りなさいよって言われ続けてるんだ。今まで悔しくて言わなかったけど、おふくろは春樹の隠れファンなんだぜ。『春樹君はあんなに優秀なのに』とか、『春樹君はあんなに素直でいい子なのに』って、子供が捻くれる禁句を子守唄代わりに育ったんだぜ、俺は」
忙しく動く隆也の手の中から夏みかんが転がり、小さなローテーブルから落ちる。
春樹は果実を追い、拾い上げながら笑い、そのわずかな時間に断る理由を探した。
けれど、適切な言葉が浮かばない。
「気持ちはうれしいけど、遠慮しとくよ」
きっと、余計に辛くなるから。その言葉は呑み込んだ。
苦しい思い出の詰まったあの街に帰ることも、もう自分には失われてしまった温かい家庭に触れることも。
その時は気が紛れても、あとで更に辛くなるに違いない。
今の自分の感情のパターンは、自分が一番よく知っていた。
「ありがとな隆也。でももう、そういう気は遣わなくていいから。中高生じゃないんだし。おばさんにはいろいろ心配してもらって感謝してる。帰省するなら宜しく伝えてよ。僕は元気でやってますって」
「春樹」
「みかん、ありがとうって」
ずしりと重い果実を手に持って笑うと、隆也はしばらくじっと正面から春樹を見つめていたが、やがて空気が漏れるように息を吐いた。
「そっか。わかった」と。
あまりにもそっけない感情のこもらない「そっか」に、春樹は少しばかり胸が冷える思いがした。
自分が言わせた言葉だというのに。
隆也はそろりと無言で立ち上がり、玄関ドアに向かって歩き出した。
「もう帰るのか?」
「ああ、これからバイトなんだ。明日からしばらく休むし。今日は遅刻できないから」
ポソリと小さく言うと、隆也は振り向くこともせずに、本当にそのまま部屋を出ていってしまった。
ガシャリとドアが閉まる無機質な音が、耳に痛かった。
静かなぶん、隆也から深い苛立ちと春樹への失望が伝わってくる。
きっと言葉を選び間違えたのだろう。
自分を心底心配してくれる友人を、怒らせてしまった。
けれど、どう選び直しても結果は同じだったのかもしれない。
強くなる、心配はしないで欲しいと言ったのは、2カ月前。今も気持ちは変わらない。臆病な自分を排除したかった。
隆也はたぶん、使命感を持って春樹を気遣っていてくれているのだろう。
その気遣いがうれしい反面、苦しかった。
以前は唯一平気で触れることができた隆也だったのに、この頃は、それさえも辛くなってしまった。
治らない。どんどん鋭敏に、大きくなっていく。自分という、治癒できない病のかたまりが。
隆也が手遊びに作った夏みかんのピラミッドが、ちょこんとテーブルの端に乗っている。
優しい黄色が、まるで友人の優しさの名残のように、そこに有った。
春樹は堪らない気持ちになり、ベランダに面した窓を全開にし、耳が痛くなるほどの蝉時雨と容赦ない真夏の熱風を、全身に浴びた。