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第3話 友

八重の家を出たあと、再び突き刺すような日差しの中を春樹は歩いた。

朝がた触れた看護師の悲しみは、自分が体験した苦痛のようにまだ細胞のあちこちに残ってはいたが、アパートに辿り着くまでの間春樹を包み込んでいたのは、柔らかく肌触りのよい安心感だった。

体の気だるさは相変わらずだったが、なんとなく今夜はちゃんと眠れそうな気がした。


「うおー! やっぱ出かけてたんだな春樹。良かった~、帰ってきてくれて!」

アパートの2階への階段を登り詰めると、春樹の部屋の前に立っていた穂積隆也が心底ホッとしたように声をあげた。


大学入学時から借りているこの古いアパートは、大学からも駅からも遠かったが、別の大学に通うこの高校時代からの友人、穂積隆也のアパートには、偶然にも近かった。

いつも突然訪ねて来ては、何だかんだ長居し、結局泊まっていく。

その屈託の無さ、気安さに何度も救われた。

春樹の奇異な能力を受け止め、一番苦しかった時期をそっと支えてくれた、かけがえのない友人だ。


一番身近な存在であり、唯一気を許せる存在であり、そしてそれゆえ春樹の依存度を強めてしまう人間でもあった。

20歳にもなって、つい小さな子供のように泣き言を言ってしまいそうになる自分が情けなかった。

春樹の苦しみは、春樹自身が模索して処理するより他にない性質のものであり、同調して理解して欲しいと思うこと自体がおかしな話なのだ。

一度甘えてしまうと、きっと理解してもらえないことに苛立ちを覚えるようになる。

自分の弱くてわがままな部分は、春樹自身が一番よく分かっていた。これ以上自己嫌悪に陥りたくはなかった。


『もう、僕の事は心配しなくていいから』

あの横川祐一の事件のあと、自分の弱さを断ち切ろうと、少し突き放すように隆也にそう言った。

強がりではない。強くなりたいと思ったのだ。

隆也は笑って『そっか。分かった』と言ってくれた。

それなのに、2日と開けずこうやって、何食わぬ顔で春樹の部屋を訪れるのだ。この友人は。

いったい何を「分かって」くれたのやら。


「部屋で寝てんのなら、ピンポン連打攻撃で叩き起こしてやろうかと思って来たんだけどさ。マジで出かけてんだって気づいて焦ったよ。俺、またこの大荷物持って帰らなきゃなんないのかと思ってさ」

良かった良かった、と言いながら隆也は抱えていた大きな紙袋をドサリと地面に降ろした。

その音からも、かなりな重量が感じられる。


「・・・それ、何?」

「これか? これは夏みかんだ」

「夏みかん?」

「そう。ある陰謀によって、俺のアパートに送りつけられた、驚くほど大量の夏みかんだ」

「なんだよそれ」

妙に持って回った隆也の口調に笑いながら春樹は返したが、隆也はやはり眉間に皺を寄せたままだ。


「だって酷いぞ? 昨日の晩さ、俺のアパートにどデカくて重いダンボールが2箱も届いたんだ。開けてみたらギューギューに詰め込まれた夏みかんが全部で64個! 64個だぞ! こんな嫌がらせがあるか?」

「送り主は?」

「東京のおふくろだ」

「それって、仕送りって言わない?」

「ひとり暮らしの息子のアパートに夏みかんばっかり2箱も送るのを、仕送りとは言わない」

隆也は渋い顔のまま首を横に振る。


隆也と彼の母親が、コメディ漫画のようなバトルを日々繰り返していたのを知っている春樹は、その時点で笑いが込み上げて仕方なかった。

隆也を引き延ばしてぽっちゃりとさせたら、その母親そっくりになる。

蛇口から水を噴き出させるように軽快に喋る、元気で可愛らしいおばちゃんだ。

口を開けば隆也のことをバカ息子と言う彼女が、実はどれほど自分の息子を案じているか、触れずとも春樹には充分に伝わってくる。

当の隆也は、その愛ある挑発に真っ向から挑むスタンスを未だ、変えられずにいるようだったが。


「おやじの親戚筋がこぞってみかん農家やっててさ、毎年それぞれが大量の夏みかんや八朔をウチに送ってくるんだ。果物の苦手なおふくろは、その度に必死こいてご近所や友達に配り歩くんだけどさ。そんなら最初から要りませんって断りゃいいのに、いつだって電話口で『けっこうなお品を』だぜ? つくづく大人の付き合いって分かんね。それでだ、今年はやっこさん、ひらめいたんだろうな。そうだ全部あのバカ息子に送ってしまおう。きっと年中金欠病の息子は、有り難がって食うか、大学の友達に配ってくれるだろうさ、ってね。…な? 陰謀だろ? だからこうして俺が健気に汗だくで配り歩いてるわけ。今じゃ俺、ちょっとした黄色恐怖症だぜ?」


ひとしきり話し終えて満足したのか、隆也は再びその大袋を持ち上げて、春樹を見た。

「ほら入れてくれよ。冷房効いた部屋で休憩しないと、黄色い相棒ごと茹で上がっちまいそうだ」


抱え上げた丈夫そうな紙袋から、ほのかに甘ずっぱい柑橘の香りがただよった。

グイと心臓を何かが掴む。


みかん・・・。あの看護師が、激しいつわりの時、唯一食べることができた果実だ。

苦しくても愛おしいの命のためだと、泣きながら摂った食事。


瞬間、眩暈を覚えた春樹は少し不自然な体勢でドンとドアに手を付いて、寄りかかった。

「え?」と隆也が小さく声を出したが、春樹は慌てて体勢を整えると、何もなかったように鍵を取

り出し、ドアを開けた。


心臓が激しく鼓動する。

流れ込んで定着した悲しい記憶は小さな切っ掛けで溢れ出し、鮮烈な痛みを伴ってフラッシュバックする。

いったいこの能力はいつ、自分を開放してくれるのだろう。

春樹は暑さのせいではない首筋の汗を、そっと拭った。


「たぶん、部屋の中マックスに暑いけど、いい? 冷えた飲みものとか無かったかも。あ、・・・そういえば、たった今おいしそうな夏みかんをもらったところだから、ご馳走するよ」

春樹が何気ない口調を装ってそう言うと、ほんの一瞬隆也は真顔で春樹を見つめてきた。

心臓が小さくトンと跳ねる。


けれどすぐにいつもの調子で隆也はニンマリと笑い、「それだけは遠慮しとくよ」と言いながら、春樹よりも先に部屋の中に滑り込んだ。



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