第2話 母
「ここらへんも、ずっと野っ原やったのにね。もう、あんたが小さい頃みたいに、空き地で遊べんようになったなあ。光彦はいっつも近所の悪ガキに虐められて、泥だらけになってピーピー泣いて帰って来とったの、覚えとる? お母さん、お母さん言うて、いっつもしがみついて来とったが」
しっかりと握られた手から伝わってくる八重の思い出は、言葉と寸分違わず、人生の幸せな部分だけを紡いで再生する映写機のようだった。
春樹は改めて人間の記憶と心のメカニズムを不思議に思った。
そして同時に、自分がその幸せな記憶の一部になる心地よさに、すっぽりと包まれていた。
いつしか、あれだけ不快だった他人の記憶の流入に脳が順応し、そしてしこりのように固まり疼いていた看護師の記憶の残像がトロリと軟化し、呼吸が楽になった。
今胸の中に広がるのは、八重の穏和な記憶だけだ。
自分が愛されているという心地よさ。
それは麻薬のように心を弾ませる。
偽りなのだと分かっていても、その手を放すのが怖いくらいに、春樹は小さな子供になってしまっていた。
次第に八重の口が重くなり、歩みが止まった。
胸が苦しい。それは触れた肌から伝わってくる八重の体の苦痛だ。
ごく自然に春樹は、しっかり握っていた八重の手を放して、ひざまづいた。
「疲れたろ? 家まで負ぶってあげるよ。ほら」
おずおずと、遠慮がちに背中に寄りかかってきた体は、信じられないほど軽かった。
あれほどの深い愛情を内包したこの老女の体は、こんなにも軽く、そして弱い。
八重の手を放した途端、春樹の思念は春樹ひとりのものに戻り、急にシンとした。
奇妙な不安、寂しさ。これは何だろう。
まるで母親を見失った幼児のように、耐え難い寂しさが胸を突いた。
まだもう少しだけ、愛情の海に漂っていたかった。
「…お母さん」
求めるように、春樹は声に出してみた。
自分の母親でもないのに。彼女は記憶の幻影を見ているだけなのに。
「はあい。ありがとうね光彦。負ぶってくれて、ありがとうね」
少し眠そうな気だるい声と共に、ポンポンと優しく春樹の頭を撫でる、手の感触があった。
「いや、いいよ。寝てていいからね、お母さん」
この小さな人の愛情を今だけ全て独り占めにしたい気持ちと、不毛な虚しさを抱きながら、春樹は八重の自宅を目指した。
道順は八重の記憶の中にはほとんど見あたらなかったため、ただ、杖に書かれた番地を目指す。
その辺りは春樹の生活圏内であり、たいして迷うことは無かった。
春樹が笹原八重の自宅を見つけるのと、その家の玄関先に居た女性が、八重を背負っている春樹を見つけるのとは、ほぼ同時だった。
「お母さん! いったいどうしたの?」
青ざめて門扉を開け、走り寄ってきたのは、白髪の混じった髪をボブにした、やはり小柄な女性だった。
面影が八重に良く似ている。たぶん本当の娘なのだろうと思ったが、春樹には自信がなかった。
触れた記憶の中に『娘』というワードは無かったのだ。
八重の記憶の中にチラリと浮かんでいたその女性は、『いつも家にいて、世話をしてくれる人』という、ただそれだけの位置づけでしかなかった。
「早苗さん、御影橋のところで光彦に会うたんよ。高校の帰りやったんって。優しい子やろ。暑いのに、ずっと負ぶってくれてな。すぐに冷たいもん、飲ませてやってくれるか?」
早苗と呼ばれた女性は、嬉しそうに言う八重と、彼女を背負ったままの春樹を目を丸くしながら交互に見ていたが、やがて全てを理解したのか、春樹の顔をじっと見つめたあと、深々と頭を下げた。
◇
随分と古い一軒家だったが、きちんと片付けられ、磨かれた家の中はとても心地よかった。
「本当にごめんなさいね、春樹くん。お母さん狭心症の発作持ちだから、徘徊癖のほうも特に注意してたんだけど。体が楽な日はふらっと出て言っちゃうのよ。今日もやられたわ」
春樹の前のテーブルに冷えた麦茶を置きながら、八重の長女、早苗は苦笑した。
60歳前後だと思うが、サバサバした物言いの、快活で聡明な印象の女性だ。
近くでよく見ると、やはり優しげな目元が八重に似ていて、親子だなと感じさせる。
この家に住んでいるのは、今は八重と早苗との2人だけらしい。
早苗は20代で県外に嫁いでいたが、旦那とはもう10年も前に死別。
6年前、八重が病に倒れたのを期に早苗は仕事を辞め、この土地に戻り、八重と同居を始めたのだという。
それまでは中学の教諭をやっていたと聞き、春樹はなるほど、と思った。
滑舌の良い標準語は、聴いていて背筋が伸びる。けれど言葉の端々に独特の優しさとユーモアが感じられ、きっと生徒たちにも慕われた先生なんだろうなと想像できた。
「でも、こんな事ははじめて。まさか、光彦を連れて帰ってくるなんてね」
静かにそう言って微笑んだあと、早苗はいったん隣の和室に寝かせてきた八重の様子を見に席を立ち、そして、戻ってきた時には、一枚の写真を手に持っていた。
「光彦よ。私の7つ下だから、生きていたら53。だけど高校2年生の時に死んだのよ。海で溺れてね」
春樹は無言でその色あせたカラー写真を見つめたが、そこに映っている短髪の少年が自分に似ているかどうかは分からなかった。
「遺体も上がらなかったから、お母さんの中で、いつか帰ってくるって想いがずっとあったんでしょうね。姉の私が嫉妬するくらい溺愛していた息子だったから、気持ちはわかるけど。・・・本当、ごめんなさいね、春樹君。ビックリさせた上に、送らせてしまって」
再び深々と頭を下げた早苗に、春樹は恐縮とはちがう、戸惑いを覚えた。
自分はこのあと、ただ「どういたしまして」と言って、帰るだけの存在なのだ。
ついさっき、心が震えてしまうほど春樹に注ぎ込まれた八重の愛情は、ただの幻であり、彼女にとってやはり自分は、何と言うこともない、あかの他人なのだ。
「いえ、そんな。当たり前のことですから。・・・じゃあ、僕はこれで。・・・八重さん、お大事に」
そう言って立ち上がりかけた時、隣室から聞こえてきたのは、寂しそうな八重の声だった。
「光彦・・・。光彦、こっちにおいで。ラムネがね、冷えとるよ・・・」
春樹は立ち上がった体を、思わず隣室に向けた。
けれど声はうわごとだったらしく、それは次第に小さくなり、まどろみの中に溶けていくのが分かった。
「ごめん。気にしないでね春樹君。夢を見てるんだと思う」
早苗は苦笑気味に笑った。
夢。すぐに消えてなくなって、何の形も残さない幻。そしてもう、二度と触れられない。届かない。
眩暈のような切なさが春樹を襲った。
口から出た言葉は、無意識だった。
「あの、早苗さん」
「え?」
「また、来させて貰っても良いでしょうか」
「でも・・・」
早苗はすこしばかり戸惑って春樹を見た。
「このあとも、時々ここに来てもいいですか。もしかして、今みたいに八重さん、光彦さんに会いたがる事があるかもしれない。だったら、顔を見せて安心させてあげたいんです」
「そりゃあ、母も喜ぶと思うけど・・・」
「来る前には必ず連絡しますし、八重さんの方で、今みたいに光彦さんに会いたがるときは、いつでも呼んでください。大学も夏休みに入りますし、時間はいっぱいあるんです」
少しばかり、強引だっただろうか。
何か、下心がある変な子だと思われなかっただろうか。
言った後で急に不安になり、驚いた表情で春樹を見つめる早苗に、恐る恐る視線を合わせた。
けれど早苗はまるで包み込むような、優しげな笑顔を返してくれた。
「本当にいいの? 私たち親子は、けっこう厚かましいわよ?」
ホッとしたのと同時に、胸が疼くのを感じた。
八重の為というのは、少し違う気がした。
たぶん自分は、あの感覚の中にもう一度埋もれてみたかったのに違いない。
悲しい記憶をすべて排除し、愛おしい者をただひたすら想う、光に満ちた恍惚の世界の中に。
そして、その深い愛情を、ほんの少しの間だけでいい。
光彦になって、自分のものにしてしまいたかった。
春樹・・・。
そう優しく呼んでくれた母も父も兄も、もういない。
家族を失くしてしまった青年の、たぶんそれは初めての我が儘だった。