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最終話 今だけは

「親戚や世話役さんが来るまでには、もうちょっと時間があるの。ゆっくりしてね…っていうのも変だけど」

リビングの椅子に遠慮がちに座った春樹の前に、早苗はアイスコーヒーを置いてくれた。


まだ冷蔵庫に沢山残っているはずのラムネではないことに、春樹はなぜか少しホッとした。

光彦でいることは、自分にとって重荷だったのだろうか。

ふと顔を上げると、その表情を見守るような早苗の柔らかい視線があった。

春樹は戸惑って目を伏せる。


「春樹くんは、何を抱え込んでるのかな」

向かいの椅子に座りながら静かに言った早苗の言葉に、春樹は一瞬呼吸を止めた。


「…え」

「さあ、質問です。春樹君は何回、“もう大人ですから、あれは昔の事ですから、中高生じゃないんですから…”って言葉を使ったでしょうか」

そう言って早苗は、きょとんとした表情の春樹を見つめてにっこりした。

返事を待つつもりは無いらしい。

「たった5年なのよ。あなたのご家族が亡くなって。そしてあなたは20歳そこそこ。まだ家族に甘えたって誰も責めない年頃なのに。それなのに大人にならなきゃ、強くならなきゃって、自分を追いつめてる様にしか聞こえなかったのよ。ただ自立を目指してる子の言葉には聞こえなかった。

ねえ春樹君は、他に何か背負ってるものがあるんじゃないのかな」


それは、塚本に感じた衝撃に似ていた。

なぜこの人は、そんなことを感じ取ってしまうのか。そしてなぜ自分にそんな事を言うのか。

「いえ……、僕は何も…」

「うん、よく知らないおばさんに、いきなりそんなこと訊かれたって答えられるわけはないよね。ただ、母に接するあなたを見ていると、何かを必死で求めてる小さな子供に見えちゃって。気になって仕方ないの。ゴメンね」

「……」

「でも、ちょっと安心したな。春樹君には、春樹君の重荷を全部知ってて、支えてあげようって思ってるお友達がちゃんと居てくれるのよね。こっちまで嬉しくなっちゃった」

「え?」


今度は春樹のほうが問いただす様に早苗を見つめた。一体なぜ、そんなことを? と。

「だからほら。夏みかんよ」

「・・・?」

「あれ? 知らなかった?」

しまったとばかりに驚いた表情を見せた後、早苗はふたたび子供のような悪戯っぽい目で笑った。

「じゃあ、これを受け取ってね。あなたの為の物だから」


そう言って早苗は、膝の上に隠し持っていたらしい夏みかんを、そっと春樹の前に置いた。

薄暗い部屋の中でそれは、場違いなほど鮮やかな山吹色に輝いている。

「裏返して見て」

早苗の言葉に従い、そっとみかんを手に取りひっくり返してみた春樹の視線が、それを捉えて固まった。

手の中でツヤツヤ光るオレンジの果実には、太い油性マジックで文字が書かれていたのだ。


《当たり! これ選んだら 今日は幸せ! 元気出せ ハルキ!!》


唖然とした。まったく気付かなかったのだ。こんなイタズラ書きをしていたなんて。

まるで子供のようなぎゅうぎゅう詰めの文字の向こうに、隆也のあの笑顔が浮かんだ。

元気出せ。 隆也の声が鮮明に聞こえた。


「いいお友達ね。、今朝これ引いて私まで元気もらっちゃった。でもこの魔法は今日中に春樹君に渡さなきゃ、って思ってね。母が帰ってきてひと段落して、真っ先に春樹君にメール送ったの」


気恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じながら、咄嗟に「すみません」と頭を下げた春樹を、早苗は優しい笑い声で包み込んでくれた。

きっと八重に良く似た、あの眼差しで見つめてくれているのだと感じる。

手の中の夏みかんが自らの熱で熱くなり、そして甘酸っぱさが自分の中に広がった。


「あなたは何かきっと、ご家族の事以外にも、私の思いも及ばないものを沢山抱え込んでいるんだろうなって思う。成人して独り立ちする年になって、いろいろ自分の中で消化しようとしてるんだと思う。

だけどね、20歳だろうが、40歳だろうが、60歳だろうが、悲しくて寂しくて心が萎んでる時って、みんなどうしようもなく小さな子供に戻っちゃうのよ。年を重ねれば強くなれるってもんじゃない。人って、本当に弱いから、すぐにくじけてしまう。1人じゃ生きられないし強くなんかなれない。

これだけは聞いて欲しいのよ春樹君。本当にあなたの事を心配してくれる人が居るなら、ちゃんと甘えなさい」


凛とした言葉が、真っ直ぐ春樹に向けられた。

それは少しばかり強引で、それゆえ母親の言葉ようでもあり、ストンと春樹の胸に収まった。

さっきまでの気恥ずかしさの熱が、春樹の中で、別の熱に変化して行こうとしているのを感じる。

自分を「生かす」ために存在する熱。

なにか少し、許された気がした。


もう一度八重にゆっくりお別れを言った後、春樹は玄関先に向かった。

「また遊びに来てね。こんなおばさんしか居なくなっちゃった家だけど。今度は春樹君の好きなもの、用意しておくからね」

もしかしたら期待をしていないのか、少し寂しそうにそう言った早苗に、春樹は「はい、必ず」と答え、深く頭を下げた。

手には先ほどのオレンジの果実をひとつ、しっかり握りしめたまま。


屋外は夕刻にもかかわらず息の詰まるほどの猛暑で、めまいを覚えながら春樹はシャツのボタンを緩めた。

初めて八重と出会った路地にさしかかると、にわかに胸を締め付けるような寂しさが込み上げ、呼吸が苦しくなった。

10日足らずの間の、母だった。

けれど確かに自分は、長い長い日々を八重と共有した。

一緒に居た時間はわずかだったが、確かにあの時間、自分は愛されたのだと感じる。

愛おしい日々は、思い出として春樹の中に残された。けれど……、あるのはまたしても、思い出だけだった。

包み込むように春樹を見つめ、手を握り、頭をなでてくれた八重は、もう居ない。


込み上げた寂しさを鎮める方法が見つからず、手に持った夏みかんを口元に寄せた。

その匂いを嗅いだ途端、また別の寂寥が春樹の中を満たしていく。

もう自分に愛想をつかして去って行った友人の、優しさの残像。

手の中の果実が、重く感じられた。


手すりで重い体を支えるようにして階段を上がり、自宅アパートのドアの前に立つと、いっそう蝉の声が勢いを増したように感じた。

ドアの前は日陰になり幾分ヒンヤリしていたが、そのぶん、部屋の中はきっと酷く熱せられているのだろう。

窓を開けてくれば良かった。

夏みかんは大丈夫だろうか。痛んでいないだろうか。思考だけがぐるぐる巡る。


そういえば、ひとつだって食べていなかった。

汗だくで隆也はここまで運んで来てくれたのに。

だから、当たりくじのことだって気づかずにいた。

結局自分は自分を嫌うことばかりに精一杯で、周りの誰にも無頓着だった。

隆也のことも。自分を好きになれと言ってくれた塚本のことも。


ポケットを探って鍵を取り出したが、指の間を滑って地面にガシャリと落ちた。

ゆっくりしゃがんで鍵を拾おうとしたが、胸が苦しくなって、その場に座り込んだ。

そう言えば朝から何も食べて無いな、と思いながら、膝に顔をうずめる。

どうにもやり切れないこの酷い喪失感は、何を食べれば埋まるのだろうと、丸くうずくまったまま、真剣に考えて気を紛らわしてみる。


蝉の声がうるさい。

首筋に、少し冷えた汗が伝って流れた。


「なあ、何やってんの?」

階段のほうから声がして、ゆっくり頭を上げると、まるで変な生き物を見たように怪訝な表情をした隆也が、こちらを見つめていた。

手にはバイト先のコンビニのレジ袋をぶら下げ、シャワーでも浴びたように汗びっしょりだ。


「どうした春樹。鍵なくしたのか? それとも気分悪いのか?」


春樹が座ったまま、ぼんやり隆也を見上げていると、隆也は慌てて走り寄ってきて、その横にしゃがんだ。

首を伸ばすように、春樹を覗き込んでくる。


「俺、ずっと携帯失くしててさ、今日やっと見つかったんだ。焦ったぞ? スケジュール全部入れてたしさ。ヤバイ、携帯無くした! って春樹んとこに騒ぎに来ようと思ったんだけどさ、俺、鬼のように朝晩バイト入れまくってて、その時間もなかったんさ。

そんで笑っちまうのがその携帯な、前に飯食った居酒屋のおばちゃんが預かっててくれてさ。もうカッコ悪いったら。そんなわけで春樹のメールにも気づかなくって。ついさっき読んで、こりゃなんかあったなって飛んできたんだ。《怒らせちゃったかな》って何。俺、怒った記憶ないんだけど」


隆也はとにかくそれだけ早口で説明したあと、少し声を抑えて、訊いてきた。

「で、何があった? 春樹」


その声を聞きながら、春樹は次第に気持ちが落ち着いて行くのを感じていた。

なくしたと思った大切なものは、まだちゃんと、そこにあった。

遠い昔、迷子になったときに兄に見つけて貰えた、あの瞬間の安堵にも似ていた。

自分はそうだ、迷子になっていたのだと、その時しっくり来た。

小さな幼児になって、迷い道に入ってしまっていた。


「…お母さんが死んだんだ。死んじゃったんだ」

それだけ言うのが精一杯だった。

そんな短い言葉の途中から涙が溢れ出し、その後はもう言葉にならなかった。

春樹はただ子供のように膝に顔をうずめ、泣き出した。

胸が押しつぶされそうに苦しく、喉の奥から嗚咽が漏れて止まらない。

横で呆れているだろう隆也に申し訳ないと思いながらも、本当にもう、自分ではどうすることもできなかった。

自分の中の凝り固まったものをすべて絞り出すような勢いで、春樹は長い時間、泣き続けた。


隆也はしばらく何も言わず、静かに横に並んで座ってくれていたが、少し落ち着いたのを見計らい、春樹の頭にポン、と、手をのせた。

「うん。そのほうがいい。それでいいよ。いっぱい泣いた方が良いんだ、お前はさ。いっぱい泣いて吐き出しちゃえ」

いつもなら、くしゃくしゃっと乱暴に髪をかき乱してじゃれるその手は、今日は子供をあやす様に、ポンポンと、優しく春樹をなでた。


「そんで、そのあとでゆっくり話してよ。そのお母さんの話。この10日間、何があったのか、ぜーんぶ聞いてやるから」


まだ手に握ったままだった夏みかんが、フワリと甘く香った。

《当たり! これ引いたら、今日は幸せ。元気出せ、ハルキ!》


もういい加減、大人にならなければ。強くならなければと思う。

けれど今だけは、もうすこし…。


うるさく鳴いていた蝉が、ほんのひととき、水を打ったように静まった。

遙か遠くの祭りばやしが、その静寂の隙間を漂うように、風にのって流れてきた。

幼いころに確かに聞いたことがある。じんと胸に来る懐かしさ。

あれは自分の幼いころの記憶だろうか。

それとも八重の記憶と共に聞いた、夏の日の音色だったろうか。


「10日ほど前にね、八重さんって人に、会ったんだ」


まだ少し涙声でそう言うと、隆也は静かに耳を傾けながら、「うん」と頷いてくれた。




                (END)

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