第1話 蝕
息が苦しかった。
けれど逃げるように押し開けた白亜のドアの向こうに待っていたのは、更にむせ返るような真夏の猛暑と激しい蝉の声だった。
冷房で冷やされた肌が一気に弛緩し、不快感に鳥肌が立つ。
一瞬めまいを覚えたが、手すりを掴んで息をつき、春樹はクリニックの短い階段を駆け降りた。
やはり来るんじゃなかった。
目のくらむ陽射しの中を歩きながら、春樹は小さく頭を振った。
脳内に刻んでしまったものを、一心に振り払う。
自宅アパートからさほど離れていないこの内科クリニックは、通学中に何度も見て知ってはいたが、自分には無縁な場所だと思っていた。
医療機関は意識的に避けていた、と言った方が良いかもしれない。
治療中はどうしても、医師や看護師の肌に触れてしまう事になる。心を読んでしまうという罪悪感は、耐え難かった。
けれど2カ月前、横川祐一の事件に関わり、死の間際の男の苦痛と無念を取り込んで以来、PTSDに似た症状がずっと春樹を蝕み、眠れぬ夜が続いた。
最初の数週間はろくに食事も喉を通らなかった。
数日前、夏風邪のせいか、季節外れの高熱を出してしまってからは流石に降参し、この内科クリニックを訪れたのだったが。
早くもこめかみを伝う汗を感じながら、春樹は自分の蒼白い腕に視線を下ろす。
半袖シャツから覗く内肘の、血止めの絆創膏の盛り上がりさえ恐ろしく感じ、引きちぎるように剥ぎ取った。
『ごめんなさいね。ちょっとチクッとしますよ』
医療用手袋をしていない方の手で、春樹の腕を押さえ、点滴の針を刺した30代後半の優しい看護師の声がリアルによみがえる。
そして同時に鮮烈に蘇ってくるのは、彼女の胸の奥にこびり付いた、深い悲しみだった。
『針の所、痛くなってきたら言ってくださいね』
駆血帯を解きながら微笑んだ彼女の目を見ることができなくて、春樹はうつむいて頷いた。
逃れようがなかった。
彼女の笑顔の裏の、ひり付くような絶望はすでに春樹の中に流れ込み、臓腑を冷たく冷やしていた。
彼女は10日前、待ち望んで、待ち望んで、苦しい治療の末やっと授かった胎児を流産してしまっていた。
妊娠を知った瞬間の喜びの大きさと、たった1ヶ月で、自分の体に宿ったその愛おしい子を失った絶望の落差は、およそ春樹の中で経験したことのないモノであり、そして男である以上、本来経験するはずもないものだった。
熱せられたアスファルトを歩きながら、春樹は思い出したように大きく呼吸した。
下腹部に、あるはずのない重い痛みがへばりついたままだ。
あの女の痛み、悲しみ、絶望。拭いきれないほど鮮烈な。
冷たい汗が再びこめかみを伝って首筋に流れた。
たとえ自分の命を引き替えにしても産みたいと願うあの愛情は、彼女と同化した瞬間の春樹にとって、身震いするほどの驚異だった。
あれが子を望む母親の心だとしたら、きっと男など一生分かるはずもない。
あれが子を失った母親の悲しみだとしたら、とうてい自分など耐えられるはずもない。
毎朝、人知れずそっと泣いて。
そして彼女はああやって必死に笑顔で日々を送っているのだと思うと、胸が軋んだ。
救われることのない悲しみだ。
今回のトラブルで、彼女が子を産める可能性はもう、無くなってしまった。
春樹はふと、心の奥に閉じ込めていた自分の母親のことを思い出した。
少し気分屋な所もあったあの母親。
機嫌が悪いときは些細なことで春樹を叱り、嬉しいときは幼い春樹を猫のように抱きしめて楽しそうに笑っていた、少女のような人。
彼女もそんなふうに、春樹を深く愛してくれていたのだろうか、と。
けれど、記憶の中にその答えは転がっていなかった。
いつも思う。
思春期に入る頃から極力両親に触れることを避けていた自分には、もしかしたら普通の子供よりも、親の心が分からなくなっていたのかもしれない。
家族を思い出すことは今でもどうしようもなく辛かった。どうせもう、みんな居なくなってしまった。
開けてみても何も答えをくれないそれらの記憶を、春樹はまた心の隅の箱の中に押し入れて、再びそっと蓋をした。
「光彦。・・・光彦?」
唐突に、少し甲高く細い声が自分の方へ投げかけられ、春樹はぼんやりしていた頭を上げた。
見ると、僅かにできた歩道の木陰にちょこんと入り込んで佇んでいる、小さな人影があった。
春樹の方を見て、嬉しそうに微笑んでいるのは、真っ白い髪をひっつめに結った、小柄な老女だった。
薄紫のワンピースで、腰をほんの少し屈めながらも、まっすぐこちらを見ている。
「光彦、ここにおったんね」
弾むようにもう一度そう言うと老女は、背を伸ばすようにしてトコトコと嬉しそうに、春樹の方に歩み寄ってきた。
春樹は咄嗟に辺りを見回し、自分以外の人間を探したが、その路地には春樹より他に「光彦」にあたりそうな人影は無かった。
「どこ行っとったんよ。探しても探しても、おらんし。お母さん、ものすごい心配しとったのよ? ちゃんとご飯になったら、帰って来んと」
拒む間もなかった。
乾いた小さな手が躊躇いもなく春樹の右手をぐっと握り、そして子供にするように、ゆさゆさと揺すぶった。
引っ込めようかと思案する余地もなく、流れ込んできたその老女の記憶と感情は、さっきまで春樹の中に停滞していた悲しみや苦痛、不安を全て弾き飛ばし、またそれとは別の異質な感情の波で、すっぽり包み込んでしまった。
目の前が白く霞む。一面の白。
「ああそうか、学校か。学校やったんよなあ、光彦。遠いし、暑かったやろ。お母さんもな、今から帰るとこなんよ。会うて良かった。一緒にお家に帰ろうな」
胸が苦しくなるほどの愛情だった。
それが今、この夏の太陽など霞んでしまうほど熱く大きく、自分に向けられている。
春樹は自分を一生懸命見上げて微笑む老女を見つめ、ただ立ち尽くしていた。
老女が春樹を自分の息子だと勘違いしているのはすぐに理解できた。
春樹は今、彼女の中では高校生の光彦なのだ。
彼女の記憶の息子の面影は、春樹を息子だと思い込んだこの瞬間から、いま目の前に立っている春樹に書き換えられてしまったのだ。
けれどその記憶の向こう側には、幼い光彦と過ごした大切で愛おしい時間が、万華鏡のようにシャラシャラと色鮮やかに広がっていた。
息子と過ごした遠い日の記憶は驚くほど鮮明で、思わずつられて微笑んでしまうほど、愛情に満ちていた。
そしてその愛情は今、間違いなく春樹に向けられているのだ。
なぜ、この80歳は越えている筈の老女の息子が、高校生の少年なのか。
なぜ、その(春樹と間違えている)息子の記憶には、その続きがないのか。
なぜ、彼女の記憶の中に、時間の経過も、彼女の情報も、悲しみも、何もないのか。
疑問は疑問となる前に、春樹に答えを与えてくれる。
つないだ手は悲しいほど雄弁だった。
老女が春樹の手を掴んだ為、路上に投げ出された杖には、ちゃんと彼女の住所も名前も大きく書いてあった。
迷っても大丈夫なように。
彼女は今、恍惚の中に居るのだ。
「ほうら、何しとんの光彦。暑いし喉も乾いたやろ。早よ帰ろう。あんたの好きなラムネも、いっぱい冷えとうよ」
きゅっと握られた手をそのままに、春樹は腰を屈めて杖を拾いながら頷いた。
彼女……笹原八重の中に、春樹を怯えさせる悲劇や悲しみは、存在しない。
それどころか、偶然、高校生の息子に路上で会えた、それだけのことが、彼女の中でこんなにも嬉しくて、胸が躍って止まらない。
手を、放すことができなかった。
春樹は、胸が震えるほどの愛情の海に自ら体を委ね、自分が自分でない感覚を、不思議な気持ちで受け入れていた。
僅かな罪悪感と共に。
「うん、帰ろうね。 一緒に帰ろう、お母さん」