32 絡まる赤い糸 (5)
バタバタバタッ
静かな廊下を急ぎ足で歩く音が聞こえる。
「――ッ! ―――ッ!?」
「――! ――」
ドアの向こうからする声は壁に阻まれて聞こえづらい。
ただ、とても相手が焦っていると言う事だけは分かる。
真っ白とも言えず、灰色とも言えない殺風景な場所で一人ぼんやりと思った。
あれ? そう言えば、どうしてここにいるんだっけ?
椅子に座った私の体は、力が入らずに深く腰を掛けたままの状態だった。
確か、買い物をして、それから家に入ろうと鍵をバッグから出して――?
ブツリと記憶がそこから途切れている。
「佐倉ッ!」
バタンッとドアが大きな音を立てて開くと、そこから現れたのは耕大くんだった。
「……なんで」
思いも寄らない人物が目の前に居て、頭が付いていかない。
ココは警察で、どうして耕大くんが焦った顔をしてて、ここにいるのか理解が出来なかった。
彼は走ってきたのか、肩を上下に揺らして息を切らしている。そして姿を見るや否やすぐに駆け寄ってきて、そして確かめるように私の手を取った。
「良かった…」
小さく安心するような声を聞き、その手の温もりを感じたら無意識に涙が浮かんだ。
「耕大くん」
「ん?」
何も無いけれど、呼びかけて返事が来る。ただそれだけなのに不思議と安心した。
「オイ、耕大! 勝手に開けんじゃねぇよ。あー、驚かせてすみませんね、婦警さん」
耕大くんの後ろから、丹羽先生がゆったりと現れた。
「佐倉……よし。生きてんな」
冗談を混ぜながらチャリっと音を立てて丹羽先生は鍵をポケットにしまう動作をしていた。
耕大くんを通り越して先生に目を向けると、彼は耕大くんをチラリと一目見てから居心地悪そうに苦笑いを浮かべて説明し始めた。
「あー。すまん。電話受け取ったのがミーティング中だったんだ。んで、運悪く聞かれちまってさ」
「……俺が勝手に丹羽さんの車に乗っただけだ」
「おーおー、そうだよ。バックミラーに耕大映った時、マジでついに幽霊が出たかと我が目を疑ったからな。よく事故んなかったよなー。俺ってやっぱスゴイわ」
先生が開き直って自画自賛をしている脇で、耕大くんがまだ見つめてきているのに気が付いた。少し気まずい感覚はあったけれど、耕大くんの姿を瞳に映すと今まで一人で不安で力んでいたものがスッ抜けていった。
それからドアがノックされて、「お話中申し訳ありません」と声が聞こえると中年の男性警察官が部屋に入ってきた。
「佐倉梓桜さんの担任の方でしょうか?」
「あ、すみません。私、私立成聖学園高等部、佐倉梓桜の担任の丹羽と申します。この度はお世話になります」
「ご丁寧にありがとうございます。私は……」
丹羽先生が入ってきた人と挨拶しているのを見ていた。
気が付くと膝の上に置いてあった両手が、力強く握り締めてしまっていて爪の痕が残った手の平を眺めてた。
「それで本日、彼女の自宅で発生した事件について……その、大変言いにくいのですが……」
男性が何かを言いにくそうに、こちらに視線を向けたのが感覚で分かった。
そこで今日遭った事と関連する『何か』に思い当たって、自然と眉間に皺が寄ってしまう。
「耕大。やっぱお前先に戻れ」
「え?」
耕大くんが振り返って不満そうな声を上げながら立ち上がった。
「……何で」
「ちょーっとな大人の事情ってヤツだ。プライベートな事なんだよ、事が複雑でデリケートでさ。出来れば聞く人間は少ない方が良い……そうでしょ、刑事さん」
「ええ。その方が宜しいでしょう。えっと彼は…?」
「ああ、まあ彼女の友人です」
サラッと耕大くんを『友人』と言った丹羽先生に、耕大くんから感じるピリッとした空気が張り詰める。そして更に不満気な表情まで浮かべて睨みつけていた。
「……」
「という訳で、しゃーねーから車に乗ってろ。もしくは走って帰れ」
丹羽先生はしぶしぶとポケットにしまった車の鍵をブランと下げて耕大くんに突き出した。
「……走って帰る」
「おお。そうか。悪いな。まぁ荷物はしゃーねーから、車ん中に置いとけよ。持って帰ってやるから」
「……んじゃ」
耕大くんはチラリと視線を向けて相変わらず心配そうな眼をしていた。
けれどこれから話す内容は心配は無用な事で、大丈夫だと短く伝えると彼はゆったりとドアへ向かって部屋を出て行った。
その背中はどこか寂しそうで出来る事なら抱きしえて大丈夫だと伝えたかった。けれど、それは私の役目じゃない。不甲斐ないと落ち込み、悲しみが込み上げる。
「そゆとこ、お前ってすげぇ俺の嫁に似てんな」
耕大くんが出て行ってすぐに先生がポツリと私に言った。
「……え?」
意味が分からず問い返すと、先生は意味有り気に微笑むと目元に寄せられたシワがより深くなった。
「いやー、青春ですね?」
「うるさいです。茶化さないで下さい」
不快な父親に関する事件が起きてささくれ立っているのに、先生の冗談が一時心を穏やかにしてくれた。
「で、挨拶も無しにお部屋に入ってきたそちらのお兄さんは何屋さんでしょうか?」
「ちゃんとノックはしましたよ」
「ニイさん……」
先生と刑事さんの後ろから現れたのは、県内トップクラス有名進学校の制服を来た見知った顔だった。
「梓桜。人を雇うなり何なり、渡した金で何とか出来ただろう。これ以上『佐倉』に手間を掛けさせるな。隙があるから良からぬ奴がお前を狙う。今後気をつけろ」
「いや、でもお兄さん。今回の事件はあなた方のお父上の……」
「それでも」
刑事さんは諭すように話すを切り出すと、彼はぴしゃりと一言で刑事さんの言葉を切った。
「梓桜は『佐倉』を離れているんです。知ってる事なんて何一つ無い。警察の方は政治界にテコ入れをしたいようですが無駄足掻きです」
掛けていたメガネの縁を指で押し上げて、見下すようにして眼を細めた。
「たとえ親父が関係あろうが無かろうが、梓桜に関わる気が無いのが本音でしょうか、今後も同様に。これは一族同意の決定ですから」
「一族で決めた……?」
「意外だろう? 曾爺さんの決定では無い事が」
お前だけ仲間ハズレ、と示唆している言葉に驚きを隠せない。
曽祖父から続く政治一家の『佐倉』では、まだ存命している曽祖父の権限が非常に強い。ただしやはり政治家たる所以か民主制=一族の同意を得た決定については、いくら曽祖父の権限があろうとも覆す事が出来ない。
そこに何故私の事が含まれるのか理解が出来なかった。
「と言う訳で身元を確認しましたので勝手に家に帰して下さい。では僕は忙しいのでこれで……」
「ちょっと待て」
踵を返そうとした彼を丹羽先生が腕を掴んで引き止めた。
「おかしいだろう、それは」
「何処がでしょうか」
「あー。一族同意の事情があるにせよ、血を分けた妹の安全を確保してやれよ」
「要するに『家に戻れ』と言え、と?」
「普通そうだろうが」
丹羽先生の言葉に彼がワザとらしく溜息を点いて見せた。
「無理です」
「……? 何でだよ」
「一滴でもこの身体に同じ血が流れていると思うと虫唾が走る。助けたいのであれば、貴方が助けてやれば良いじゃないですか」
「はあ?」
「決定は覆せない、破ってもならない」
言っても無駄なんです、と言った表情にはどこか諦めた雰囲気を醸していて、それを見た丹羽先生にはもう何も言う事が出来なかった。
「――してやられた」
帰り道の車の中で、丹羽先生が不機嫌な口調で言った。
「そうですね」
「政治家の息子だって事を侮ってた。既に人の心を掌握するような術をあの年で持っているとはな」
後部座席で耕大くんの荷物を抱えながら、流れる景色に目を向けていた。
たまにバックミラー越しに丹羽先生に観察されているのが判る。
「それはサッカーも同じですよ」
「……極論を言われたらな」
結局あの後、『佐倉』から私の身元引き受けをする人間が現れる事は無く、更に父親から事件に関して穏便に済ませ且つ、私に関しても圧力が掛かったらしく警察では何の解決もなく帰される事となった。
「佐倉、家どうするか? あの家にはさすがに帰れないだろう」
「……」
学校から家に辿り着いた後玄関のドアを開くと部屋が見事に荒らされていた。扉という扉がすべて開かれまるで空き巣に入られた痕だった。
けれど、金目のものは全く無くなっておらず、無くなったのは母が生前書き残していた日記数冊だった。
どうしてそれが無くなったのか理由が判らないものの、それから警察に連絡を入れて今に至る。
「誰も見て無いんじゃ担任としても心許ない」
「心配ご無用ですよ」
「かと言って、いつまた部屋に入られるか判らん。っつう事でお前の兄貴の話に乗る訳じゃないけど、お前ウチに来い。その方が色々と好都合だ」
「………ウチ?」
「おうよ。丹羽家で嫁の手伝いと言う名のバイトだ」
この時バックミラーに映った先生の表情を私は一生忘れる事は無いだろう。悪い意味で。
次回7月6日までに投稿予定