27 背中合わせの距離 (9)
言う、つもりは無かった。
――『好きです』
でもいつか、口から飛び出していくとは思っていた。まさか今だとは思わなかったけれど、耕大くんの態度を見ていたら言わずには入れなかった。
彼は嘘は付かない。
彼女の名前を出した時に、事実なんだと確信した。今は違うのかも知れない。でも過去には深い関係があったんだろう。
現実を受け止めて行く間に、挟んでいた頬も解放して跨がっていた彼の膝からも降りて力無く項垂れた。
その場で号泣しそうになるのを必死で止めていた。
「……ごめん……」
小さく耕大くんから返ってきた言葉は、もう分かっていた。
サッカーを頑張っている人が今、愛だの恋だのに惑わされるはず無いと分かっていた。サッカーをするために成聖に来ているのだ。自分の高校生活をサッカーに懸けているんだから。
「……バカだね、私」
ファンを公認してくれたから、仲良くしてくれていたはずなのに自惚れていた。勝手に恋愛感情持っちゃって舞い上がっていた。いつも彼はそうだった。校舎の裏でキスした事も、図書館で頭撫でてくれたのも、他とちょっと違うと言ってくれたのもすべて耕大くんの配慮なのだから。
突きつけられた事実に苦笑しか浮かび上がらない。絶望で目の前は真っ暗だ。
「応援するって言ってたのに、」
――ファン、失格だね。
目の前で茫然としている耕大くんを置いて、体を翻すと無我夢中でその場を走り去った。全力で“醜い私”が出てくる前に逃げ出したかった。
バタンッ
ものの数分で家に辿り着くと、息を切らしたままズルズルとドアに背を預けて座り込んだ。
(あぁ…………終わった……)
言うはずじゃなかった。
今になって、後悔がのし掛かってきた。
告白したからには、もう友達としては居られない。
明日からの学校の合同授業では、もう一緒の席に座れなくなる。
好きだとは言ったものの、『彼女』になりたいかどうかは自分の中でもよく分かっていなかった。
でも隣に立ちたいと思ったのは本当だった。その証拠にキャリーさんと耕大くんが、一緒にいるところを想像しただけでも嫌だと、心の中で独占欲を感じている。
今のこの気持ちは、そう簡単には消えない。
膝を抱え込むように座り、息を落ち着かせ靴を脱いで自分の部屋を意味もなく眺めた。
ガランとした一人暮らし用の部屋で良かったと今日初めて感じた。
「今は、目一杯泣いて明日から…………」
声も隣には響かない。
「うっ……ふぇっ……く」
目標に向かう耕大くんがいつも眩しかった。太陽みたいだった。
だから私は彼を好きになったんだ。
でもこの気持ちを仕舞わなくちゃ行けない。
好きだよ。
一度出した気持ちは止めどなく溢れてきりがなかった。
*****
――耕大くんに振られた。
覆しようもない事に、翌日の登校が億劫になった。
曇天の空は薄暗い灰色をしていて重々しい。まるで私そのものの姿だった。
教室に入って着席をすると、習慣付いてしまったサッカー部の朝練風景を無意識に眺めていた。
でも今日は一度そちらへ視線をやっただけで、早々に愛子の元へと移動した。
「あれ? 梓桜おはよー。朝練今日は見てないんだ?」
中間テストが終わってから席替えがあり、愛子とは席が離れてしまった。愛子は廊下側一列目後ろとなかなか良い席だと思う。私は運が良いのか悪いのか、入学してから席が変わらず窓側の席なままだった。
「うん。もう、良いの」
「……そう?」
愛子は首を傾げただけで、そう言えばさー、と話を続ける。
まだ何も話して無い今としては気が紛れて助かったと思った。
今はサッカーも耕大くんの話も出来ない。思い出すだけでも目頭が熱くなって、鼻もツーンとしてくる。
「昨日の試合もスゴかったよねー! 特に後半、翠田耕大が出てきてから!」
「うんうん! あっという間にゴールが決まった! って言うか、ゴールまでの道筋が華麗だよねー」
「昨日の試合梓桜ちゃんも来てたんだよね? 一緒に座れば良かったのにー」
「そ、うだね。今度は、……そうするね」
話が反れたかと思いきや、思わぬ展開に背筋が凍った。
妙に脈拍も上がって冷や汗が出そうになるのを愛想笑いで必死に誤魔化した。でも隣から鋭い視線が送られて、視線を上に上げることが出来なかった。
こういう時に人間関係に敏感な人は厄介だ。
適当にその場の空気を壊さないように注意しながら、時間をやり過ごした。
――キーンコーンカーンコーン……
一限目は運が悪い事に初めから化学の合同授業だった。
告白する前なら、嬉しさや楽しみに溢れる時間だったのに、『好き』のたった一言で全部ぶち壊しだ。
憂鬱な気持ちで化学室に足を運んでいるけど、今日はどうしても耕大くんたちと一緒の班になれそうに無い。
ゆったりとした足取りで、廊下を歩きながらどうしようかと考えていると、隣をちょうど同じ化学の授業を受けている石上実理ちゃんが追い越そうとしていた。
「み、…みのりちゃん!」
「あれ? ……梓桜ちゃん今日はゆっくりだねー。どうかした?」
私を追い越していった実理ちゃんを呼び止めはと彼女が振り返り首を傾げて待っていた。
「あ、あのね」
彼女を見てものの数秒で浮かび上がった考えが口からすり抜けていった。
彼女も昨日のサッカーの試合を観に来ていたメンバーだ。
主にサッカー部キャプテンの鷺沼先輩のファンだけれど、耕大くんのサッカーを見て朝の話では興奮していたようだった。ならばと思い切って相談してみた。
「今日だけ班を交代するってこと?」
「うん。良いかな?」
「翠田くんと渡部くんとは、梓桜ちゃん程話したこと無いから自信無いなー」
「お願いします」
頭を下げると「そんな、かしこまらなくても」と笑う彼女の承諾に少し重くなった心が軽くなった気がした。
実理ちゃんの席は化学室の一番後ろの班だ。私たちの班は前の列だったから、申し訳ない気持ちもあったけれど、とりあえず今日だけ交代してもらえるようになって、あわよくば今週も同じように乗りきれないかとも思った。
今は本当に耕大くんと顔を合わせるのが辛い。
この気持ちが落ち着くまでは、何かと手を打たなければならなかった。
化学室に入ると真っ先に耕大くんと渡部くんの姿が目に入った。フラれてもやっぱり好きな人は一番に見つけてしまう。
彼らはすでに外の授業に見いっていて、こちらには何も反応を示さなかった。
それはそれで寂しくも思うけれど、今はそれで良かった。
目が合ってもたぶん、上手く対応出来ない。
私は二人を尻目に送りながら、後ろの席に静かに腰を下ろした。
それと同時に授業開始のチャイムが鳴り、先生も入ってきて皆が席を立った。
「「よろしくお願いしまーす」」
距離はあるけれど前の席にいる実理ちゃんたちが、一礼の挨拶をしている姿が見える。そして、席に着く瞬間耕大くんたちが一瞬驚きで固まったのも見えた。
「あれ? 佐倉さん今日はこの席なんだ」
隣から声を掛けられて苦笑の返事をしていると、前の方から言葉の無い視線の圧力を感じ取った。けど今はそちらには目を向けられなかった。
「おい、翠田。何ボーッと突っ立ってるんだ? 早く座れ?」
先生の言葉にドキリとしたけれど、目線はノートに固定したまま彼を見ることは無かった。
班が変わって多少作業の分担が違ったけれども、板書のために顔を上げれば、耕大くんが目に入ったし、何度かこちらを見ている視線も感じた。そこを何とか乗り切り、何か言われる前に一限目の終了すぐに化学室から飛び出した。
教室に着く頃には息が切れていて、自分がどれだけ速いスピードで逃げてきたか、思わず笑いそうにもなった。でもそうしなければ、授業が終わってから渡部くんに捕まって理由を問われてしまう。
きっと平常心では居られないし、耕大くんも気まずいだろう。
自分の席に着いて息を落ち着かせるために大きく息を吐いて、次の授業の準備に取り掛かった時だった。
「翠田耕大と何が合ったの?」
気配もなく掛けられた声に驚いて、肩をびくりと跳ね上げてしまった。
「あ、愛子……」
「今日の梓桜、挙動不審だよ」
腰に手を当てて立っている彼女に肩を竦めた。視線を合わせられずにいると、愛子はため息を吐いて私の手首を掴んではグイグイと引っ張って教室の外へと施した。
「ここだったら話せそう?」
連れてこられた非常階段で愛子が仁王立ちになって聞いた来た。
多少強引な所もあるけれどそれも彼女の良さであり、周りから頼りにされる面でもある。その態度が今の私にとって気持ちの整理を施させて良い時間なのかも知れない。
ただ、今は話そうと時間が掛かる。傷を負った心では、言葉にするだけでも涙が溢れて止まらないからだ。
「ふ……振ら、れ……た」
たった四文字の言葉を絞り出すのに嗚咽が大きくなって言うのが難しかった。
「振られ、ちゃったよ……」
事実を述べ終わると、愛子が目を大きく見開いて私を見ていた。
愛子にすがり着くと、彼女は戸惑ったように私の背中を擦った。
「え、……ちょっと待って? どういう事?」
愛子が両肩を掴んで揺さぶるように質問してきて、ゆっくり言葉を切らしながらも一つ一つ答えていった。
「梓桜は、もう諦めるの?」
「………分からない。でも、耕大くんの中に彼女がいるし、もう振られちゃったから、諦めないといけないんだろうね」
「でも世の中一回フラれてもまだ好きだっていう人も中には……」
「私は、“ただの”ファンだから」
彼のサッカーを応援しなくちゃ。そう妙な使命感が私の心を覆っていた。
ただのファンならば、いくら耕大くんが特別だと言おうと、もう二度と彼との距離感を間違えてはいけない。
じゃないとまた、勘違いをしてしてしまう。
一度彼を好きだと自覚したのだから、きっと私は一生彼が好きだと思う。でも、その一方通行の想いは決して通じることは無い。
彼との距離は一番近くて一番遠い。
「アイツ、分かってんのかな?」
「……?」
ボツリと悪態を突いた愛子に意味が分からず、私は彼女を見たまま、彼が好きだという気持ちを何処かへ放り投げたかった。