22 背中合わせの距離 (4)
ピーッ
――まもなく、試合が開始されます。安全のため柵から前に乗り出さないよう、応援される皆様のご協力をお願い致します。――……
ピッチ上からアップをしていた選手たちがベンチの方へ引き上げて来た。
その中に、汗を拭いながら歩いている彼がいた。
「あ、」
私が見つめた先の耕大くんの瞳は、遠くからでも判るくらいに闘志を宿していた。
今日の試合に出れるのかも解らない。
以前、愛子から聞いた試合の内容では耕大くんは試合の間中もずっと、身体を動かしてアップを繰り返してはアピールをしていたらしい。
一年生でレギュラー。
名門と言われるにはまだ早い成聖でさえ、近年インターハイに名を上げて強豪と言われてきている。
学校の名前を背負うそのプレッシャーは半端なものではないだろう。
けれど私の脳裏には、ずっとあの桜の下で交わした会話の少し寂しげな笑顔がこびり付いて離れないでいる。
いつの間にか無意識で両手を祈るように握って彼を見ていた時、隣にいた男性の影が微かに動いた。
「前にちょっとくらい行けないかなぁ」
つまらなそうにそして求めるかのように、ぽつりと呟いた一言で私は固定していた視線を上に向けた。
「『隴を得て蜀を望む』って言うのかな? いつまでも限が無いよね。人の欲望には」
一つの欲求が達せられると、また次の欲求が生み出される。
人間はどこまでも欲が深い生き物だ、と。
例えば、名門と呼ばれるサッカー部でサッカーをしたいと思っていたら、部活に入ってみたくて。
部活に入れたらレギュラーとして試合に出たくて。得点したくて。もっと試合を続けたくて。
だから、戦うほどにまた新しい人と違う技を求めていく。
例えば、今日一目好きな人を見れれば良いと思っていたら、いつの間にか話してみたくて、話してみたら触れてみたくて。
満たされたと思っても全然足りなくて。
底無し沼のように、求めるものは多くなっていく。
だから、恋をしてもまた新しい何かを求めていく。
「解かる気がします。今もそうだから」
「ははは。やっぱり気が合うね。僕ら」
そういっている間に、試合が開始されようとする。
スタートメンバーがセンターラインと垂直に並び、次々と名前を呼ばれていく。
ただ、ベンチ入りのメンバーにひっそりと耕大くんの名前が書いてあるだけだった。
試合開始の笛が鳴って、センターサークルからボールが蹴りだされた。
十番を背負った腕章を付けている鷺沼さんが、相手の意表をついて後ろからボールをカットするとゴール方へ大きくボールを蹴り上げた。
サイドから駆け上がる選手がボールをワンタッチで受け取って、ドリブルをしながら中へ攻め入る。
けれど、攻撃パターンが読まれているのか難なく相手のディフェンダーがボールをカットしてゴールから遠ざけた。
ボールを追いかけては、止める。奪っては奪い返す攻防が幾多にも繰り返された。
そして、前半三十一分。
ピピーーッ!
相手フォワードが成聖のディフェンダーを振り切りキーパーと一対一になった時だった。
ドリブルで駆け上がってくる相手選手を止めて、シュートフォームになったところに反応して仕留めて「反撃のチャンスだ」とフィールドに居た誰もが思った矢先だった。
『キックフェイント!』
フィールドの外から聞こえた声にキーパーがはっとした時にはもう出遅れていた。
振り抜こうとした足を相手のフォワードがボールを跨ぎ、その場から一歩外にずれて反対の足でボールを強く蹴り上げた。
僅か物の数秒の出来事に身体は反応せず、目はボールを追う事しか出来なかった。
白と黒の模様に彩られたボールは宙に弧を描き、そのまま白い四角の枠の中に吸い込まれるようにして飛んで行った。
キーパーのサイドからフォワードに抜かれた後に急いで戻ってきたディフェンダーの三年河村先輩が、必死にボールを追うものの枠の外で防ぐ事が出来ずに頭上を嘲笑うかのように過ぎてネットを揺らした。
一対〇 ――……
スコアボードの表示が切り替わり、相手のベンチと観客席から喜びの声が上がった。
相手の選手が喜びに舞いあっがって居る中、キーパーで三年の久永先輩がゴールの中で転がっているボールを拾い上げ、センターサークルに向けて蹴り上げた。
それをサークルの手前で鷺沼先輩が受け取り、少し俯いた顔でボールを転がした。
私は先取点を取られた光景を見てから成聖のベンチへ視線を移した。
ベンチの前では成聖とローマ字で書かれたウェアを着た耕大くんが佇んでいた。
来ると解っていた攻撃手段に対応できなかった仲間への叱責か。
もしくは今フィードに立てていない己への苛立ちか。
後ろの席から見ていても彼の後姿に悔しさが滲み出ているのが解った。
リスタートの笛が鳴ると耕大くんは再び足を動かし始めた。
愛子から聞いていた。
耕大くんが入部して県予選が始まってから、今まで成聖のイレブンが得点を許したのはたった一点。今回の試合で二得点目になる。
守備力の弱いチームでもないし、攻撃力が無い訳でもない。
今日のチームには何かが欠けている。
決勝リーグを目の前にしてどうなっているんだろう。外側から見た私には不安しか映らなかった。
「出たよ。まただ」
得点されてから思わず立ち上がった私とは反対に、隣に座っていた男性が呟いて大きく溜息を吐いた。
「……“また”?」
「ああ……。えーっと、気にしないで。僕の独り言だから」
彼はそう簡単に言うだけで、視線をまた試合の方へと戻して何も語らなかった。
負けても決勝へは進める。
そう教えてくれたのはハーフタイムの時だった。
「え? どういうことですか?」
「だから、何ていうのかな。普通のトーナメント方式の勝ち上がっていくような決め方では無くて、勝ち点をいかに多く獲るかで競い合うんだ。今で言うと、勝てばポイント三点、引き分けは一点。負ければ〇点っていう風に」
男性は胸ポケットに入っていた手帳を取り出して簡単に表を描いて説明をしてくれた。
「とすれば今、成聖がいる予選リーグでこれ以上勝つ必要も無く決勝へ進めるっていうことですか?」
「そう。五校と戦い終わってすべて勝っている成聖は既にポイント十五点を保持している。予選順位二位の今日の対戦相手は三勝一引き分け一敗中だからポイント十点。成聖に勝ってもポイント十三点で予選敗退になる」
「つまり、今日負けても関係ないってことなんですね」
私は選手たちの何かが欠けた部分に納得がいった。
今日の彼らは覇気が無い。
どうせ、負けても勝っても同じ。そんな気持ちで試合をされると見ているこちらとしても気分が悪くなる話だった。
だから、気になった。
悔しさを滲ませた耕大くんの後姿。
彼の姿はどこまでも勝利に拘って、全力を注ぐという事。気持ちよくサッカーをするためのコントロールだったんだという事。
「耕大くんのサッカーが早く観たいですね」
私の小さな一言に、隣の男性は「そうだね」としみじみするように同意してくれた。