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9 最終話 海に溶ける想い

 駆け足で夏が過ぎ去り、秋が空の色まで変えても東京の風景は人々の装いを除けば大した変化がなかった。営業部ではチーフの部長昇進が決まり人事の穴も埋まった。僕の心に開いた風穴は秋風を通したまま虚しい音を響かせていた。佐倉の結婚を聞いたのはそんな秋の日のことだった。恋愛の虚しいコトこの上なく一人で歩く明治通りは重々しかった。気付けば佐倉に想いを寄せていた僕は勝手に膨らませた恋に押しつぶされていた。

 落ち込むのはその日だけにしようと思って僕は一人で人通りの少ない路地に入り静かなバーを見つけて入った。以前佐倉や友人たちと来た店だった。

「蒲田!」僕に声をかけたのは部長に昇進した上司だった。カウンターには部長の隣に憧れの美人マネージャーがいた。会社での昇進祝いを断っておいてこんな場所で新しい恋人と飲んでいる上司が羨ましかった。

「こっちで一緒に飲みましょうよ」美人マネージャーが僕を誘った。落ち込んでいますと表情いっぱいに表していた僕への同情だったのだろうか。

「佐倉のことか?」唐突に部長が言った。

「まさか」僕は精いっぱいの虚勢を張った。

「あんなコを好きになっちゃうなんて気の毒よね」美人マネージャーが言った。

「いえ、ですから……」

「別に隠すことはないさ。みんな知っていたよ。相手がどうであれやり切れないよな」部長は美人の恋人との間に僕を招いて座らせた。

「今日は私がおごるよ。好きなものを飲めばいい」部長に言われて僕は「強い酒をください」とバーテンダーに言った。

「スピリタスをそのまま出してあげて」美人マネージャーがバーテンダーに得意の笑顔を添えて注文した。バーテンダーは一瞬驚いた表情をしたがオーダーに応じた。僕の目の前に出されたショットグラスに注がれた透明の液体がスピリタスという酒だった。僕はその酒を一気に喉に流し込んだ。

「ゲホッ!」僕は強烈なアルコールに咽た。

「ひどいことするな」部長は美人マネージャーに言った。

「佐倉の熱を冷ますにはこれぐらいじゃないとダメよ」美人マネージャーが言った。

「どうして誘ってくれたんですか?」僕は二人に聞いた。

「お前が一気にその酒を飲んだ理由と同じだよ。想いが強いと反動が大きいからな」と部長が言った。

「そうそう。佐倉は存在しているようでそうでないようなコなんだから。片思いの男を量産してどこかに行っちゃうのよね」と美人マネージャーが言った。

「明日ならまだあのコ横浜にいるわよ。きっと昼から山下公園で絵でも描いているんじゃないかしらネ」美人マネージャーがグラスの水を僕の前に置いてくれた。

「さよならくらいはしてきなさい。ケジメをつけてもっとイイ女を探さないとネ」美人マネージャーが優しく笑った。

「明日は有給休暇を使え。あとは一人で飲んでくれ。お前が泣くのを見たくないからな」部長はそう言うと一万円札を置いて美人マネージャーと店を後にした。僕は部長の予想通りになってしまった。その日に流した涙が僕の人生では一番多かったと思う。

 翌日僕はワインレッドのスーツを着て横浜に出かけた。クリスマスパーティ用に買ったスーツだった。高級なギャバジンの一張羅。クリスマスに佐倉を驚かせようとして購入したスーツだった。その日、僕は桜木町駅から海岸通りに沿って歩き山下公園を目指した。

 山下公園に着くと佐倉は一人で絵を描いていた。美人マネージャーが言ったとおりだった。佐倉は海からの風に髪を揺らして遠い海を眺めていた。僕が声をかけると佐倉は目をパチパチさせて「おっ!」と言った。

「佐倉、結婚おめでとう」僕が言うと佐倉は「サンキュ!」と言った。

「また外国に行くのか?」

「うん。南太平洋。きっときれいだよ」

「そうか」

「今日はカッコいいぞ、蒲田!」佐倉が僕の顔を見て言った。

「佐倉、俺がお前に惚れていたことを知っていたか?」僕が聞くと佐倉は海に目を向けた。

「海はいいねぇ。色も音も。でも見えるのは海面だけだよ。その下は見えないけどたくさんの魚が泳いでいるんだよね。きっと私も同じだね。見えないものを無理に見ようとしてもやっぱり見えないからなぁ。見たければ海に潜るしかないよ」佐倉はスケッチブックに描いたその日の絵を僕に見せた。それは遥か遠い南太平洋に連なる海だった。

「これあげるよ。蒲田、今度逢う時はもっとイイ男になってそうだね」

「そうりゃそうさ」僕はこみ上げる想いを封じて笑ってみせた。

「ありがとう」佐倉の最後の言葉はとても簡潔だった。同じ言葉を僕も胸の中で呟いた。僕はついにさようならを言えなかった。佐倉が去った山下公園で僕は海を見ていた。それは佐倉が愛した海だった。


おしまい


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