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6 恋慕

 佐倉はスプレー缶を勢いよく振ってカラカラと音を立てた。佐倉は聞いたこともない歌を大きな声で歌いながら次から次とスプレーで壁に何かを描いていた。国道を走る車の中には徐行する者まで現れた。駅から歩いてきた歩行者は遠巻きに佐倉の壁画パフォーマンスを眺めていた。歩行者の足が止まり人だかりになった。佐倉はそんなことには気もとめず壁画を描き続けた。しばらくすると佐倉は『手のひらを太陽に』を歌い始めた。脇に佇む自分が恥ずかしくなってきた。佐倉が壁に描いている絵が完成に近づくとその絵がアメコミのようなタッチの絵だとわかってきた。猫顔の佐倉が高層ビルを駆け登っている姿がコミカルで笑えた。絵の中では空には丸みを帯びた飛行機が飛び、太陽が呆れた顔をしていた。

「あれ?もう始まってたの」佐倉の友人たちが人だかりを分けて佐倉の脇までやって来た。

「おっ!いいところに来たねぇ。もうすぐ終わるぞ!」佐倉は言い終わるとまた同じ歌を歌い始めた。佐倉が最後に描き添えたのは佐倉を下から仰ぎ見るカエルだった。驚いた表情のカエルが観衆の笑いを誘った。佐倉は脚立に登ったり下りたりを繰り返して彼女の傑作は遂に完成した。観衆たちは拍手で佐倉の絵の完成を祝った。

「上手な落書きだね!」と子供が大きな声で言った。佐倉はその子供に向かって「おぉ、ありがとう、ありがとう」と言って大喜びした。

「ねぇ、佐倉ぁ、こんなところに勝手に描いちゃって平気なの?」と佐倉の友人が聞いた。すると佐倉は「勝手にじゃないよ。市役所で許可をもらってきたんだぞ」と答えた。横浜市は実に寛容なのだ。佐倉はまた歌いながら片づけを始めた。僕は脚立を片付けようとして手がペンキだらけになった。

「ありゃ、蒲田汚れちゃったねぇ。ごめん、ごめん」と佐倉が言った。

「気にしなくていいよ」と僕が答えると「そうなの?」と佐倉が言った。佐倉はベンジンの瓶とハンドクリームを布袋から取り出して「これを使いなよ」と言って渡してくれた。僕の佐倉に対する好意はこの時一気に上昇した。


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