私をフッた男を見返そうとしたら、契約パートナーの侯爵令息が溺愛演技をやりすぎてくるのですが
「アネット嬢、君とダンスパーティーに参加することはできない」
卒業式の五日前。
毎年恒例の卒業記念ダンスパーティーを楽しみにしていた私は、パートナーの約束をしていたキルシュ様の言葉に固まった。
「……それは、他にご用事ができたということですか? だからパーティーに参加できなくなったと?」
動揺を隠せないながらも、なんとか理由を尋ねる。するとキルシュ様は一瞬、面倒くさそうに顔をしかめたあと、ふいと私から視線を逸らした。
「それが……急遽グレース嬢のパートナーを務めないといけなくなってね」
「グレース嬢の? どうしてですか? 私は何か月も前から約束していたのに、なぜ突然そんなことに……!」
「やむを得ない事情なんだ。君には申し訳ないが理解してほしい」
「理解って──」
「アネット嬢、君は子爵令嬢でグレース嬢は伯爵令嬢だ。身分からして君が折れなければならないことは分かるだろう?」
「……っ」
貴族社会のルールを持ち出され、思わず言葉に詰まると、キルシュ様は私を見て口もとにうっすらと笑みを浮かべた。
「分かってくれて感謝するよ。それじゃあ」
「あっ、お待ちください、キルシュ様……!」
キルシュ様は私が呼び止める声など気にもせず、さっさと立ち去ってしまった。
一人取り残された私は、ショックで呆然としながら立ち尽くす。
(まさかキルシュ様があんな方だったなんて……)
フーリエ伯爵家のキルシュ様は入学したときから私の憧れの人だった。明るくて優しくて、彼の爽やかな笑顔を見るだけで元気になれた。
だから、ありったけの勇気を出して彼にダンスパーティーのパートナーになってほしいと申し込んだ。
卒業前にどうしても彼への想いを伝えたかったから。
そして、『ダンスパーティーの花火を一緒に見た二人は結ばれる』というジンクスにあやかりたかったから。
本当に彼のことが好きだったから、パートナーを了承してもらえたときは信じられないくらい嬉しかった。
(でも、こんな風にパートナーを断られるということは、完全に脈無しってことよね……)
やむを得ない事情だとか言っているが、結局は私よりグレース嬢を選んだということだ。
おそらくキルシュ様にとっては最初からグレース嬢が本命で、私はただのキープ要員だったのだろう。
(それなのに私ったら、キルシュ様と恋人になれるかもしれないなんて夢見て、本当に馬鹿だったわ……)
初めて知る失恋の痛みが胸に堪える。
同時に、これからのことを考えると頭までズキズキと痛み出した。
(もうパーティーまで五日しかない。今から新しいパートナーを見つけるのはかなり厳しいわ……。もし新しいパートナーが見つからなかったらどうしよう。一人で参加する? いえ、それはあまりにも惨めすぎる……)
キルシュ様にパートナーを約束してもらえたことで、今までずいぶん浮かれてしまっていた。そんな私が一人でパーティーに参加したら、きっと陰で笑われてしまうだろう。
(でももうパーティーのために新しいドレスも作ってしまったし、お母様も私が着るのを楽しみにしてる……)
私が急にパーティーに行かないと言ったら、きっと悲しむはずだ。私の卒業を誰よりも楽しみにしてくれていたのに、最後の最後で余計な心配をかけたくはない。
「……やっぱりパーティーには参加しないと。こうなったらもう先生にでも頼んで、なんとかしてパートナーを作らないと──」
「だったら、俺がパートナーになろうか?」
「えっ?」
目の前に見知った男子生徒が現れる。
クラスメイトのルシアン・ラングレー侯爵令息だ。
「ルシアン様……?」
意外な人物からの申し出に驚いていると、ルシアン様はつかつかと私に近づいてきて、クスリと愉快そうに笑った。
「なんだ、俺の名前ちゃんと覚えてたんだね」
「え?」
「ほら、いつも俺のこと名前で呼ばないから」
「そ、それは……」
返事のしづらい話題に、私はつい口ごもってしまう。
(だってあなたのこと苦手なんだもの……)
正直言って、彼にはあまりいいイメージがない。眉目秀麗で誰もが一目置く人物だけれど、私にとっては意地悪で腹黒そうな人という印象しかなかった。
私が授業で何か発言するたびにうっすら口角を上げてこちらを見てくるのが、馬鹿にされているようで不快に思っていた。
だから名前も呼ぶ気になれなかったし、今まで必要最低限にしか関わっていなかったのに、まさかパートナーの申し出を受けてしまうなんて……。
「で? どうする? まあ俺を選ぶしかないと思うけど」
「……いえ、もともとどなたか先生に頼もうと思っていましたから。というか、ルシアン様ならもうパートナーがいらっしゃるでしょう?」
ルシアン様ほどの人気者なら、とっくにパートナーも決まっているはず。きっと美人のご令嬢を選り取りみどりだったことだろう。
「せっかくルシアン様のパートナーになれたご令嬢の恨みを買いたくありませんから結構です」
割り込みでルシアン様のパートナーなんかになったら、相当恨まれてしまうに違いない。きっと友達の令嬢たちに愚痴やら有る事無い事広められたりしてしまうだろう。そうなればもう社交界で生きていけない。
(それを分かっててパートナーを申し出るなんて、やっぱり嫌な人)
あまり無礼にならない程度に軽く睨みつつ、きっぱりと断ると、ルシアン様は心なしか落胆したように眉を下げた。
「俺にパートナーはいないよ。知らなかった?」
「え、嘘……」
「嘘じゃない。ダンスパーティーには参加しないつもりだったからね」
「どうしてですか? ルシアン様が参加しないなんて……」
「どうしてって言われても、参加する理由もなかったし」
「では、なぜ今になって私のパートナーになろうだなんて仰るんですか?」
もともと不参加の予定だったのに、どういう理由で今さら参加する気になったのか意味が分からない。人助けのつもりだろうか。
「まったく、俺のことが信じられないって顔だね」
「い、いえ、そんなつもりは。……ただ、どうしても慎重になってしまうだけです。また直前でパートナー解消されるのは嫌ですから」
「……」
もしこれがルシアン様のいたずらで、今度はパーティー当日にドタキャンなんてことになったら、もう立ち直れないかもしれない。だから、そんな心配のない先生に頼むのが最善なのだ。
「ですので、やっぱりルシアン様のお申し出はお断りさせて──」
「見返してやりたくない?」
「……え?」
「君との約束を破ったキルシュのことを見返してやりたいとは思わない?」
「キルシュ様を見返す……?」
予想外の言葉をオウム返しに呟くと、ルシアン様はサファイアのような青い目を細めて笑った。
「そう、奴より優位に立って見下してやるんだよ」
「優位に立つ……? 私がですか?」
「ああそうさ。キルシュの代わりに教師をパートナーにしたところで、奴にはノーダメージだし、君が陰で馬鹿にされるだけだ。でも俺が君のパートナーになれば、すべてが変わる」
「変わるって、どういうことですか?」
「まず第一に、君はキルシュより上ランクの男をパートナーにすることができる」
彼の言うとおり、伯爵令息であるキルシュ様よりも侯爵令息であるルシアン様のほうが上位であると言える。それに、たしか学園の人気ランキングでもルシアン様は圧倒的な一位だったはず。
「そして第二に、キルシュはグレース嬢に捨てられる不安を覚えることになる」
「グレース嬢に捨てられる……? 一体どういうことですか?」
「それはね、グレース嬢はつい最近までずっと俺とパートナーになりたがっていたからさ」
「えっ?」
「俺は断っていたのにだいぶ諦めが悪くてね。ギリギリまで粘っていたけど、さすがにもう無理だと理解して、自分に言い寄っていた男にパートナーを頼んだらしい。そう、君のパートナーだったキルシュにね」
「!!」
私は驚きのあまり、目を真ん丸に見開いた。
「そういうことだったんですね……。だからこのタイミングでパートナー解消なんて……」
やっぱり私はキルシュ様にとって、グレース嬢とパートナーになれなかったときのためのキープ要員だったのだ。格下である子爵令嬢の私なら、なんのわだかまりもなく切り捨てることができるから。
(ひどい……)
ついさっきまで恋していた相手に、今は悔しさが込み上げてくる。
「そういうわけだから、俺が君と一緒にダンスパーティーに参加すると知ったら、グレース嬢はなんとかしてパートナーを乗り換えようとするはずだ。キルシュは今度は自分が捨てられる恐怖を味わうだろうね」
「なるほど、そういうことですか……」
ルシアン様の説明どおりの光景が目に浮かぶ。これまでのキルシュ様とグレース様の行動を考えれば、きっと、いや確実にそういう流れになるはずだ。
「どう? 俺をパートナーにする気になった?」
ルシアン様が首を傾げて尋ねる。
彼の話に乗れば、この悔しい気持ちもスカッと晴らすことができるだろう。
ただ、ひとつ懸念があった。
「ルシアン様が私を裏切らないという保証はありますか?」
「保証?」
「はい。先ほども言ったとおり、もう約束を反故にされるのは嫌なんです。ですから、絶対に私を裏切らないと保証してくださるなら、ぜひパートナーをお願いしたいと思います」
「はは、分かったよ。それなら──ラングレーの青獅子の紋章に誓おう」
「……!」
由緒あるラングレー侯爵家の青獅子。智勇を兼ね備えた家門の象徴として名高い紋章。それに誓うという言葉はラングレー家の人間にとって限りなく重いという。
「これで安心できたかな?」
「……はい、分かりました。それではよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしく頼むよ」
こうして、ルシアン様が私の新たなパートナーとなったのだった。
◇◇◇
翌朝。いつものように学園の校門をくぐった私の前に、輝くような笑顔を浮かべた美男子が現れた。ルシアン様だ。
「おはようアネット嬢、今日も可愛いね」
「……?」
「アネット嬢?」
疑問符を浮かべながら固まる私とは対照的に、ルシアン様は至って自然で人気者のオーラを醸し出している。
学園カースト最上位の侯爵令息が、平々凡々な子爵令嬢に甘い言葉をかけるという不可思議な光景に、周囲の生徒たちがざわめく。
(何なのこれ……)
訳の分からない事態に焦っていると、ルシアン様が小声で私に囁いた。
「キルシュを見返してやりたいなら、まずは生徒たちの注目を集めないと。彼らの興味を引いて話題になるようにするんだ」
「だからこんなことを……?」
「ああ、君も協力を頼むよ。俺たちが親しい仲に見えるように」
「ええ……?」
親しい仲に見えるようにと言われても、一体どうすれば……。
パッと思いつかないが、とりあえずクラスメイトらしく笑顔で挨拶しておこう。
「お、おはようございます、ルシアン様。いいお天気ですね!」
彼をなるべく避けていた過去を忘れ、友達に対するように明るい声で挨拶をしてみる。
すると、ルシアン様が「ふふっ……」と小さく笑い声を漏らした。
「なっ……どうして笑うんですか」
「ごめんごめん、今までと違いすぎて面白くて」
「だってルシアン様が親しく見えるよう振る舞えって仰るから……!」
「そうだよね。ありがとう、100点満点だよ」
ルシアン様が私の挨拶に勝手に点数をつける。それから私の横に移動すると、私の手から通学鞄を奪い取った。
「重いだろう? 俺が持つよ」
「い、いえ、大丈夫──」
「いいから」
ルシアン様が上機嫌な様子で鞄を持ち、校舎のほうへと歩き出す。
その世にも珍しい様子に周囲の生徒たちが息を呑む音が聞こえた。
(は、恥ずかしい……)
ダンスパーティーのパートナーになってもらうだけでよかったのに、まさか今からこんな風に接触しなければならないなんて、完全に想定外だ。
私はため息をつきながら、重い足取りでルシアン様の後を追いかけたのだった。
◇◇◇
それから翌日、そして翌々日もルシアン様は私を校門の前で待ち構え、笑顔で通学鞄を奪い取った。
「アネット嬢の鞄はいつも重いね。一体何が入ってるんだい?」
「普通に教科書とノートです。あとは先生からお借りした参考書とか」
至って普通の返事に、ルシアン様がまたおかしそうに笑い声を漏らす。
「君は本当に勉強が好きだね」
「好きといいますか、将来のために必死に学んでいるだけです」
「ああ、王宮侍女になりたいんだったね。たしかに高い教養と知識が求められるからね」
「はい…………え?」
ルシアン様の言うとおり、王宮侍女になるのが私の夢だ。
でも、なぜルシアン様がそれを知っているのだろうか。
「あの、どうして──」
「ルシアン様!」
背後からふいに可憐な声が響く。
気がつくとルシアン様の隣に綺麗なブロンドの髪をした女子生徒が並んでいた。
「……グレース嬢か」
彼女の存在に気づいた途端、ルシアン様の顔から笑顔が消える。
そして、私の身体も思わず強張った。
(グレース嬢──キルシュ様の新しいパートナー……)
元々ルシアン様のパートナーになろうとしていたが、それが無理だったためキルシュ様に乗り換えた令嬢だ。
グレース嬢は私のほうを一瞥して、クスリと嫌な笑いを浮かべたあと、ルシアンに向かって愛らしい声で話しかけた。
「おはようございます、ルシアン様。今日も朝から素敵ですぅ」
「そう?」
「うふふ、朝からルシアン様と並んで歩けて嬉しいですわぁ」
「それはそれは」
グレース嬢の甘ったるい話し方とは対照的に、ルシアン様の口調はひどくそっけない。
最近はルシアン様といえば笑顔の姿だったから見慣れない様子に驚いてしまったが、思えばこれがルシアン様の平常運転だったかもしれない。
(私とは仲の良いパートナーを演じているだけだものね)
「アネット嬢、どうしたの? そんなに俺のことを見つめて」
「えっ、いえ、あの……」
ぼーっとルシアン様を見つめていたら、ふいに目が合ってしまい、どきりとする。
「俺に構ってほしかった? 大丈夫だよ、今日の休み時間はずっと一緒にいよう」
「ずっと……?」
「うん、ずっと」
ルシアン様が楽しそうな笑顔を浮かべる。
先ほどまでのそっけない態度からのすばやい切り替えに、彼の演技力の高さを思い知らされる。
すると、グレース嬢が突然「いや〜ん」と甘えた声を上げた。
「ルシアン様ぁ、今日の鞄、すっごく重くて疲れちゃいましたぁ。腕が折れちゃいそう……」
涙でうるうるした瞳をルシアン様に向け、「ぐすん」と言いながら上目遣いで見上げる。
(こっちも演技派だった)
さっきまでは羽のように軽そうに持っていた鞄を、今は鉄塊でも入っているかのように重たげにぶら下げている。
愛らしい顔立ちの女性のこんな姿を見たら、男性はみんな助けてあげたいと思うのではないだろうか。
ついそんな感想を抱いていると、ルシアン様がおもむろに口を開いた。
「そりゃ大変だ。そんな重い鞄はその辺に置いとくといい。君のために力自慢の男が運んでくれるよ」
「え……でもぉ、私はルシアン様に持ってほしくてぇ」
「無理だよ。俺の手は両方塞がってるから、ほら」
ルシアン様がそう言って、反対側の手で私の手を握る。それから心底驚いたように目を丸くした。
「うわ、アネット嬢の手は本当に小さいね。赤ちゃんの手みたいだ」
「い、言い過ぎです。それに私の手が小さいというより、ルシアン様の手が大きいんです」
「そっか。じゃあ手を握るときは気をつけるよ。君の手を痛くしないように」
ルシアン様が優しく微笑む。
「じゃあ行こうか、アネット嬢」
「は、はい……」
グレース嬢の刺すような視線を背中に感じながら、私はルシアン様と手をつないで校舎へと入っていったのだった。
◇◇◇
そして卒業式前日の放課後。
私は誰もいない裏庭で、ひとりため息をついていた。
「ルシアン様にパートナーになってもらうことが、こんなに大変だったなんて……」
昨日と今日は、本当にいろいろ大変だった。
まず、昨日の登校時にルシアン様がグレース嬢を適当にあしらい、私との仲を周囲に見せつけるように振る舞ったことで、さまざまな噂があっという間に広まってしまった。
『ルシアン様はアネット嬢を溺愛しているみたいよ。ダンスパーティーでもパートナーになるんですって』
『アネット嬢はキルシュ様とパートナーになったんじゃ……』
『キルシュ様はアネット嬢を捨てて、グレース嬢を選んだらしいわ』
『でもグレース嬢は本当はルシアン様とパートナーになりたかったらしいわよ。だから乗り換えを企んでいるんですって』
『すごい四角関係……。パーティーの日はどうなっちゃうのかしら』
どこへ行ってもヒソヒソと噂されてしまい、すっかり疲れてしまった。
(それなのに、ルシアン様はまだまだ噂が足りないなんて言って……)
彼はこの演技を相当楽しんでいるらしい。
もはや息をするような自然さで溺愛仕草を連発してきて、私や周囲の反応を面白がっている。
たとえば、今日のランチでも──。
『アネット嬢、いよいよ明日だね』
『ああ、ダンスパーティーですか。よろしくお願いします』
『もちろん任せて。忘れられない思い出にしてあげるよ』
『ちょっ……その言い方は少し危険な香りがします』
『本当? ドキドキした?』
『ま、まあ……』
『それは嬉しいな。……でも、忘れられない思い出になるのは俺のほうだろうな』
『どういうことですか?』
『だって明日の君は、きっととても綺麗だろうから。目に焼きついて、一生忘れられなくなる。そのまま攫いたくなってしまうかもしれない』
『な、何を仰ってるんですか……!』
『アハハ、真っ赤になって可愛いね』
ルシアン様がそう言って、楽しそうに微笑む。その瞬間、食堂中から女子たちの羨望のため息が聞こえてきた。
「……いくらなんでも昼間の食堂でやり過ぎだわ」
思い出したら、また顔が熱くなってきた。
男の人からこんな風に扱われるのは初めてだから、演技だと理解していてもつい胸が高鳴ってしまう。
ほんの少し前まではルシアン様に悪印象しか持っていなかったのに、我ながら手のひら返しがひどい。
(だって本当に誰よりも優しくて、私を思っているように見えてしまうんだもの……)
いや、あれはただの見せかけだ。
実は天性の才能を持っていたルシアン様の神演技に過ぎない。
ルシアン様からの甘い態度も優しい言葉も、すべてダンスパーティーが終わるまでの期間限定のサービス。だから、うっかりその気になったらいけない。
「心を強く持たないと」
パチンと両頬を叩いて顔を上げる。
すると、まさかの人物が目の前に現れた。
「キルシュ様……?」
「やあ、アネット嬢」
彼と話すのは何日ぶりだろうか。
以前は何か言葉を交わすたびに早鐘を打っていた胸が、今は至って規則正しい鼓動を刻んでいるし、いつも太陽のように輝いて見えていた姿も、もはやその他の男子大勢と変わらなく感じられる。
「お久しぶりですね。では私はもう帰りますので失礼します」
軽く頭を下げて立ち去ろうとしたとき、キルシュ様が私の腕を掴んだ。
「待ってくれ! 話がある!」
「……とりあえず手を離してください」
「あ、ああ、すまない」
キルシュ様は慌ててパッと手を離したあと、私の様子をうかがうように、遠慮がちに口を開いた。
「その、ダンスパーティーのことなんだが……」
「ええ、グレース嬢とパートナーを組まれるのですよね。お似合いだと思います」
「あ、ああ……いや、そうではなくて……」
「何ですか? 急いでいるので手短にお願いします」
「わ、分かった。その……君はルシアンとパートナーになったんだろう? そのことで頼みがあって……」
「頼み?」
私が眉根を寄せて聞き返すと、キルシュ様は切羽詰まったような必死の表情をこちらに向けた。
「頼む! ダンスパーティーは欠席してくれないか!?」
「はい?」
私は耳を疑ってキルシュ様を見返した。
「急に何を言ってるんですか? パートナーの約束を破棄した次は、パーティーを欠席しろ? あまりにも勝手ではありませんか?」
「そ、それは分かっているが、しかし……」
「はぁ……私とルシアン様がパーティーに参加したら、グレース嬢がルシアン様ばかり気にして、自分がないがしろにされるんじゃないか心配だと。そういうことですね」
「ぐっ……」
図星をさされてキルシュ様がうつむく。
こんな情けない人につい最近まで恋していたなんて、我ながら本当に恥ずかしい。
「あなたに私の行動まで指図する権利はありません。私はダンスパーティーに出席します」
「そんな……」
キルシュ様が悲壮な表情を浮かべる。
数日前、パートナーを断られたときの私のように。
「私とパートナー解消してくださってありがとうございました。おかげでルシアン様と楽しいひと時を過ごせそうです。キルシュ様も念願だったグレース嬢と素敵な夜をお過ごしください。では」
うなだれるキルシュ様に挨拶して裏庭を後にする。
「あー、スッキリした!」
言いたいことを言えて、晴れ晴れと胸がすいた心地がする。もうさっきのでキルシュ様への仕返しは済んだと言ってもいいだろう。
「これもルシアン様のおかげね」
キルシュ様にあんな風に言い返せたのは、ルシアン様がパートナーになってくれたおかげだ。
その期限である明日のパーティーで、これまでの協力についてお礼を言わなくては。
(明日が最後……)
名残惜しい気がするのは、ルシアン様の演技の魔法にかけられているせいかもしれない。
「でも、せっかくだから期間限定の魔法を楽しみましょう」
明日が待ち遠しい気持ちと、少し寂しい気持ちを抱えながら、私は帰途に着いたのだった。
◇◇◇
いよいよダンスパーティー当日。
卒業式をつつがなく終えた卒業生たちが、各自ドレスアップして学園のホールに集まってきた。
(みんなすごく豪華なドレス……。私、ちょっと地味だったかしら)
私的には割と張り切って挑戦したデザインだったのだけれど、他の人たちのドレスと比べると至って平凡に見える。
(ルシアン様と並ぶと見劣りしちゃうかも……)
侯爵令息であるルシアン様の衣装は最高級のオーダーメイドだろうし、美形の彼が着こなせばきっと輝かんばかりに素晴らしく見えるはず。
「ルシアン様に恥ずかしく思われないといいんだけど……」
「──アネット嬢、その格好……」
名前を呼ばれて振り返る。
すると、すぐ近くにルシアン様が立っていた。思ったとおり、今日の卒業式の中でダントツと言っていいほど完璧な装いだ。
そんなルシアン様が、遠慮がちに私を見つめながら、動揺したように口もとを押さえている。もしかすると、さっきの心配が当たってしまったのかもしれない。
「ルシアン様すみません。私なりに頑張ったつもりだったのですが、全然地味だったみたいで──」
「……き……だ」
「え?」
ルシアン様が何か仰っているが、手で口を押さえているせいでよく聞こえない。
「あの、今なんて……」
もう一度聞き直してみると、ルシアン様は今度は何か嬉しいことでもあったかのように頬を染めて微笑んだ。
「君が綺麗だと言ったんだ。この会場中で一番美しいよ」
「ま、まさかそんな……! 他の人たちと比べると地味すぎて、ルシアン様に恥をかかせるんじゃないかと思っていたのですが……」
「地味だって? もしかして肩出しのデザインじゃないからとか? そんなのを着られてたら俺は君を直視できなかったかもしれないよ」
「……!?」
「それに俺が君を恥に思うなんてありえない。むしろ、俺のパートナーはこんなに綺麗で愛らしいんだって自慢して回りたいくらいなのに」
ルシアン様の演技はすごい。
まるで本心から言っているように聞こえてしまう。
もうキルシュ様への意趣返しは済んだから、こんな風に人前で褒めちぎってもらう必要はないのに。
(でも、せっかくだからダンスパーティーが終わるまでは……)
「さあ行こうか、アネット嬢」
「はい、ルシアン様」
ルシアン様と一緒にホールの中央へと向かう。
今夜は素敵な思い出を作ろう。
そう思って一歩踏み出したとき……。
「きゃっ!」
「アネット嬢!?」
突然、足元の何かにつまずいて転びそうになってしまった。
「アネット嬢、大丈夫?」
「は、はい、ちょっとつまずいてしまったのですが大丈夫──うっ……」
平気だと思って立ち上がろうとした途端、左足に軽い痛みが走った。
「どうしたんだい?」
「……足首を少し捻ってしまったようです」
そこまで深刻ではなさそうだが、今夜に限っては致命的だ。
「すみません、ダンスを踊るのはちょっと難しそうです……」
「そんな……」
ルシアン様の顔が曇る。
その表情にズキリと胸が痛んだとき、すぐそから大袈裟に驚く声が聞こえてきた。
「まあ、アネット嬢! 足を挫いてしまったのね! これじゃあダンスなんて踊れないわ! たぁいへ〜ん!」
「グレース嬢……?」
気づけば、フリルたっぷりのドレスをまとったグレース嬢が、哀れみの眼差しでこちらを見つめていた。
「きっと高いヒールに慣れなくて転んでしまったのね。痛みが酷くなるといけないから、早くお医者様に診てもらったほうがいいわ。すぐに人を呼んであげる」
「いえ、そこまででは──」
グレース嬢に断りの返事をしようとすると、彼女は私を無視してルシアン様のほうを向いた。
「ルシアン様もお可哀想に……。せっかくダンスパーティーに参加されたのにパートナーが踊れなくなってしまうなんて……。そうだわ! 怪我をしたアネット嬢の代わりに、私がルシアン様のパートナーになって差し上げます! こういうときは助け合わなくては!」
グレース嬢がにこっと可憐に微笑む。
その瞬間、私は彼女の罠にはまってしまったことに気がついた。
(グレース嬢の仕業だったのね……)
おそらく、誰かに頼んで私の足を引っかけて転ばせたのだろう。そうして私に怪我をさせ、ダンスができない状態にしたところで、ルシアン様にパートナーの代役を申し出る。
(……まんまと引っかかってしまったわ)
グレース嬢を睨みつけると、彼女は白々しく私を心配してみせた。
「アネット嬢……足が痛むのね、無理しちゃダメよ。あ、迎えが来るまであそこで休憩してたらどう? ちょうどキルシュ様も気分が悪くなって休んでるところよ」
グレース嬢が指差すほうを見ると、壁際の椅子に暗い顔をしたキルシュ様が座っていた。結局、彼はグレース嬢に捨てられてしまったらしい。
「さあルシアン様、もうすぐダンスが始まりますわ。一緒に行きましょ?」
グレース嬢がルシアン様の腕を取る。
それを見て無性に苛立ちが込み上げてきたが、今の私にはどうしようもないし、自分が踊れない以上、パートナー交代を断る資格もない。
「……ルシアン様、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、私ではダンスのお相手は無理そうです。ですので、ルシアン様のお好きになさってください」
最後の最後でグレース嬢にハメられてしまったのは悔しいけれど、キルシュ様を見返すという目標は達成できた。
だから、この辺で幕引きにするのがいいだろう。
(ルシアン様は元々ダンスパーティーには不参加の予定だったと仰っていたから、このままお帰りになるはずだわ)
そうしたら、私はまたパートナーに捨てられることになってしまうけど、グレース嬢もプライドを傷つけられるはず。
「……アネット嬢、本当に俺の好きにしていいんだね?」
「はい、ルシアン様のご自由になさってください」
「分かった」
ルシアン様はそう返事するやいなや、グレース嬢の腕を振りほどいた。
そして、流れるように私の身体を抱き上げる。
「じゃあ、二人でパーティーを抜け出そうか」
「へっ……?」
「ルシアン様!?」
驚くグレース嬢や周囲の人々全員を無視して、ルシアン様がホールを出ていく。
その両腕で私を抱き上げたまま。
「ル、ルシアン様、どうして……。てっきりお帰りになるものと……」
「なんで? せっかく君のパートナーになれたのに、どうして帰らないといけないんだ」
「あ、あの、その溺愛演技はもう大丈夫です。キルシュ様への仕返しもできてスッキリできましたから」
「ならよかった。でも、それとこれとは別だから」
「別……?」
ルシアン様は庭園に出ると、私を下ろしてベンチにそっと座らせた。
「でも、君が帰りたいなら迎えを呼ぶよ。足を怪我したのに無理はさせられないから」
ルシアン様が心配そうに眉を寄せる。
その顔を見ていたら、自然と首を横に振っていた。
「いえ、大したことありませんので大丈夫です。ルシアン様が帰らないなら、私も帰りません」
「……それはダンスのパートナーとして?」
「そ、そうです」
「ダンスは踊らないのに?」
「そうなんですけど……!」
自分でも矛盾していると思う理由をモゴモゴと答えると、ルシアン様はどこか嬉しそうに笑って、私のすぐ隣に腰を下ろした。
「勝手にここまで連れ出してごめんね。でも、あのままホールに残るのは嫌だろうと思って」
「はい、仰るとおりです。連れ出していただいてありがとうございました。ただ、方法がちょっと恥ずかしかったですけど……」
ルシアン様に抱きかかえられながらホール中の注目を浴びるのは、さすがに恥ずかしすぎて顔から火が出そうだった。
「あれも私とのパートナー契約サービスの一環だったんですよね? 私を捨てる形になるのを避けて、グレース嬢にやり返すという……」
「え? 君に怪我をさせたグレース嬢への仕返しはあんなもので済ますつもりはないけど」
「えっ?」
「それに……もしかして、君は未だに俺が演技で君に優しくしてると思ってる?」
ルシアン様が問いかける。
でも、質問の意図がよく分からない。
「未だに……? だって、そういう作戦でしたよね? 親しく見えるように振る舞って注目を集めるっていう……」
最初にルシアン様が言い出したことだ。
だから、ずっと演技でそういう振る舞いをしているのだと思っていたのに。
困惑する私に、ルシアン様が「そっか、君は真面目だからな……」と呟く。
そして、真剣な眼差しで私をまっすぐに見つめた。
「演技なんかじゃないよ。たしかに最初は少しずるい方法を取ったけど、俺は本当に君のパートナーになりたかった。だからそうなれて嬉しくて、ずっと浮かれていたんだ」
「え……?」
ルシアン様の言葉が処理しきれない。
人気者のルシアン様が私のパートナーになれて浮かれていた……?
「もともとパーティーを欠席するつもりだったのは、君とキルシュが一緒にいるのを見たくなかったからだ。だから、キルシュの馬鹿が君との約束を破棄したのを聞いて、腹が立ったけど嬉しかった。俺なんて眼中になかった君でも、この状況なら俺を選んでくれるだろうと思ったから」
「まさか……どうして……」
そんなこと考えもしなかった。
彼の振る舞いはあくまで演技で、半分面白がって仕返しに協力してくれているのだと思っていた。
たまに本当に溺愛されているように感じてしまうのは、彼の演技力が高すぎるからだと思っていたのに、それこそが勘違いだったというなんて。
「人一倍真面目な君が、ずっと好きだった。だからこの五日間、君のパートナーとして一緒に過ごせて幸せだったよ。できるなら、これから先もパートナーでいたいくらい。……ダメかな?」
夕闇の中でもはっきり分かるくらい、ルシアン様の耳が赤くなる。
その姿がどうしようもなく愛おしく見えてしまうということは、おそらくそういうことなのだろう。
「……ルシアン様。私はこのパーティーでしたいことがダンス以外にもうひとつあったんです」
「ダンス以外に?」
「はい。こんなジンクスを知っていますか? 『ダンスパーティーの花火を一緒に見た二人は結ばれる』って」
「それって……」
「今日、私と一緒に花火を見ていただけませんか? ルシアン様と一緒に見たいのです」
ルシアン様の目が大きく見開かれ、それから喜びにあふれた笑顔に変わる。
この表情を演技だと思わなくていいことが、すごく嬉しい。
すると、ヒューッと花火が打ち上がる音が聞こえ、空に大輪の花が咲いた。
「俺を選んでくれてありがとう、アネット嬢」
「こちらこそ、私のパートナーになってくださってありがとうございます」
私たちは肩を寄り添って、夜空に上がる色鮮やかな花火を眺めたのだった。




