11:折れない刃
11:折れない刃
魔王城の練兵場は、朝の冷気に包まれていた。
石畳は夜露で薄く濡れ、吐く息は白く、空はまだ群青色を残している。
陽が昇りきらないこの時間帯に、そこにはすでに一人の魔族が立っていた。
蟲将軍グラズ・ヴァルナ。
魔王軍六幹部の中でも最強と謳われ、“武人”と呼ぶに相応しい男だ。
長身で、背中には巨大な甲殻の翼。
両肩からはクワガタムシのハサミのような突起が生え、背中にはカブトムシの角を思わせる黒い角。
頭部はカミキリムシを人間大にしたような異形で、複眼は朝の薄明かりを反射して鋭く光り、静かに獲物を見据える捕食者のようだった。
ゼラは訓練場の入口で立ち尽くしていた。
(……帰りたい。絶対に帰りたい)
今日の任務は、サルヴァンからの命令で“グラズの訓練に参加すること”。
ゼラはスライム。
戦闘力は低い。
訓練など、地獄に決まっている。
グラズはゼラに気づくと、静かに言った。
「来たか。遅いっ」
「まだ日の出前ですよ……」
「武人に時間は関係ないっ」
ゼラは心の中で泣いた。
* * *
やはり訓練は、地獄だった。
「もっと速く動け」
「無理です!」
「なら死ぬだけだ」
グラズの言葉は冷たい。
だが、そこに悪意はない。
ただ事実を述べているだけだ。
ゼラは触手を伸ばして攻撃しようとするが、グラズは一歩も動かずにそれを避ける。
まるでゼラの動きをすべて見切っているかのようだった。
「遅い。弱い。軽い」
「全部ひどい!」
「事実だ」
ゼラは何度も叩き伏せられた。
粘体の身体が地面に散らばり、形を保つのもやっとだ。
(……俺、なんでこんなことしてるんだろ)
半泣きになりながら、それでも立ち上がる。
グラズはその姿をじっと見ていた。
「……立つのか」
「立ちますよ……! サルヴァン様に……強くなれって言われたから……!」
「強く、か」
グラズはわずかに複眼を細めた。
「ならば、なおさら鍛えねばならん」
「優しくしてくれてもいいんですよ!?」
「優しさは戦場では毒だ」
ゼラは地面に倒れ込んだ。
* * *
訓練は数時間続いた。
ゼラは何度も倒れ、何度も立ち上がった。
グラズは一度も褒めなかった。
一度も手を抜かなかった。
だが――ゼラが倒れるたび、グラズは必ず言った。
「立て」
その声は、冷たいようでいて、どこか温かかった。
ゼラは気づき始めていた。
(……この人、厳しいけど……俺を見てくれてるんだな)
その気づきが、ゼラの胸に小さな火を灯した。
* * *
訓練が終わった頃、魔王城に緊急の報せが届いた。
「グラズ様! オルガナ五連国からの侵攻です!」
場所は南東の国境。
侵攻した兵団は、近くの村を襲っているという。
グラズは即座に動いた。
「ゼラ、来い」
「えっ!? 俺も!?」
「訓練の成果を見せろ」
ゼラは震えながらも頷いた。
(……やるしかない)
* * *
村は混乱していた。
五十名ほどの兵団が暴れ、村人が逃げ惑っている。
グラズは静かに戟を構えた。
「ゼラ。お前は敵兵から村人を守れ。あいつらは某が倒す」
「わ、わかりました!」
ゼラは触手を伸ばし、倒れた村人を引き寄せる。
兵士の剣がゼラの身体を裂くが、ゼラは必死に耐えた。
「う、ぐ……!」
「魔物は死ねぇ!」
(……怖い……! でも……!)
離れた場所で、今にも村人に切りかかろうとしている兵士の剣を絡めとる。
次々と対処しようとするが、何せ村中に散らばった兵士どもを、たった二人では手が足りない。
ゼラは触手を伸ばし、兵士の足を絡め取った。
「グラズさん! 今です!」
グラズは一瞬だけゼラを見た。
その目は、“武人が戦友を見る目”だった。
「よくやった」
グラズは目にも留まらぬ速さで、敵中を駆け回った。
次の瞬間、グラズの戟が閃き、全敵兵の首が落ちた。
村に静寂が戻る。
ゼラはその場に崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」
* * *
グラズはゼラの前に立ち、静かに言った。
「ゼラ」
「……はい?」
「お前は弱い。だが――折れない」
ゼラは目を瞬いた。
「折れぬ刃は、鍛えれば強くなる。今日のお前は、武人として恥じぬ働きをした」
ゼラの胸が熱くなった。
「……俺、仲間として……認めてもらえたんですか?」
グラズはわずかに頷いた。
「お前は、魔王軍の一員だ。そして――某の弟子だ」
「弟子!?」
「不満か?」
「い、いえ! 嬉しいです!」
グラズは静かに戟を背負った。
「これからも鍛える。覚悟しておけ」
ゼラは笑った。
「はい! よろしくお願いします!」
グラズは背を向け、歩き出した。
その背中は、ゼラにとって“師匠”そのものだった。
こうして――蟲将軍グラズ・ヴァルナは、ゼラを“仲間”として、そして“弟子”として認めたのだった。
* * *
戦いが終わり、村人たちが安堵の声を上げ始めた頃だった。
グラズは静かに空を見上げ、朝日を浴びる甲殻をわずかに鳴らした。
「ゼラ。戦いは終わったが、学ぶべきことはまだある。戻って訓練の続きだ」
「えっ……まだやるんですか……?」
「当然だ。戦場は終わりなき鍛錬の場だ。今日の働きは褒めるが、慢心すれば死ぬ」
ゼラは肩を落としたが、どこか嬉しそうでもあった。
自分を“弱い”と断じながらも、見捨てず、導いてくれる存在がいる。
それが、どれほど心強いことか。
村人の一人が恐る恐る近づき、震える声で言った。
「あ、あの……助けてくださって……ありがとうございました……!」
ゼラは驚いた。グラズと居るからかも知れないが、いかにも弱そうなスライムである自分にまで、感謝してもらえる――。
「……い、いえ……俺は……」
言葉に詰まるゼラの横で、グラズが腕を組んだ。
「礼は不要だ。某らは任務を果たしただけだ」
だが、その複眼の奥には、わずかな誇りが宿っていた。




