01:異界渡りと再会の夜
01:異界渡りと再会の夜
逢坂 丈は、趣味の山登りと称して近郊の低山を歩いていた。
もっとも“趣味”と言っても、今回が初めての登山である。遭難は怖い。まずは近所の低い山で、新品の道具の試運転というわけだ。
丈は限りなく小に近い中小企業の営業職。忙しいわりに給料は少なく、日々の疲れは溜まる一方だった。
不良というほどではないが、真面目にやってこなかった学生時代の自分を呪うこともしばしばである。
学生時代といえば、仲の良かった名護屋 光一とは、よくバカをやったものだ。
だが就職してからは疎遠になってしまっていた。
「こーちん、どうしてるかなあ」
光一の学生時代のあだ名を口にしたとき、丈はふと気づいた。
いつの間にか周囲が濃い霧に包まれている。
一歩一歩、探るように歩を進める。
気づけば、周りの植栽も見慣れぬものに変わっていた。
「この辺に、こんな木、生えてたっけ?」
次の瞬間、丈は背中にのしかかる重み押し倒された。
地面に叩きつけられ、背中から首筋、頭部へと、じんわりと冷たい感触が広がっていく。
立ち上がろうと四肢に力を込めるが、痺れたように力が入らない。
いつの間にか霧は晴れ、青空から日光が降り注いでいた。
大空を飛ぶ鳥が、丈の視界を横切り、日光を遮った。
その光が揺らいだ瞬間、丈の意識はゆっくりと遠のいていった。
* * *
サルヴァンは焦っていた。星詠みの一族から「異界渡りの兆しあり」との報を受け、自らの居城を飛び立ったのが一刻ほど前のことだ。
異界渡りとは、時空の揺らぎによって異世界の生物が迷い込んでくる現象であり、理由は不明だが、異界の生物には例外なく“特殊な力”が宿る。
サルヴァンは、その存在を自らの陣営に引き込むため――いや、神を僭称する敵対陣営の手に渡らぬようにするため、急ぎ探し回っていた。
「……見つけたっ」
森の上空を旋回していたサルヴァンは、目的のものを視界に捉えると、大翼に風をはらませて急降下した。
そこには、人間らしき生物が倒れていた。
粘体生物にのしかかられ、半ば溶かされつつある。
「君は……!?」
その顔を覗き込んだサルヴァンは一瞬驚き、すぐに意味深な笑みを浮かべた。
そしてためらいもなく、指をスライムと人間の混合物へと突き入れた。
* * *
丈が目を覚ますと、豪奢なベッドに横たえられていた。
「……知らない天井だ」
思わず漏れた独り言。
その声に反応するように、ベッド脇の人物が身じろぎした。
「やあ。気が付いたようだね」
ベッド脇の人物は、女の子のような顔立ちでにこりと微笑んだ。丈はこの顔をよく知っていた。
「こーちん……」
サルヴァンは少し険しい表情を見せると、人差し指を口にあてた。
「おっと。そこから先は口に出してはいけないよ」
その声音は優しいが、どこか抗いがたい力を帯びていた。
サルヴァンは人差し指を口に当てたまま、いたずらっぽく片目を細めた。
「元の名前――君の“真名”は、この世界では秘すべきものなんだ。真名を知られるということは、魂の芯を握られるのと同じだからね。」
丈は息を呑んだ。
真名という言葉の響きが、妙に胸に引っかかった。
サルヴァンは続ける。
「だから、元の世界の名前は胸の内にしまっておくといい。ここでは、別の名で生きる方が安全だよ」
丈は上体を起こそうとしたが、身体が自分のものではないように重く、思うように動かない。
サルヴァンはそれを見て、軽く肩をすくめた。
「無理もないさ。君は一度、死んだんだから」
「……は?」
丈の声はかすれていた。喉が乾き、胸の奥がざわつく。
サルヴァンはベッドの端に腰掛け、まるで昔話でも語るように穏やかに続けた。
「正確には、死にかけていたところを、あのスライムが“取り込んだ”と言うべきかな。君の肉体はもう元の形を保っていなかった。だけど――魂だけは残っていた」
丈は言葉を失った。
サルヴァンはその反応を楽しむように微笑む。
「だから、僕が少し手を加えた。君の魂を、スライムの器に定着させたんだ。君はもう、人間ではない。けれど、君は君だ」
丈は震える手で自分の胸に触れた。
鼓動はある。息もできる。
だが、どこか違う。皮膚の下に、粘りつくような感覚がある。
「……俺は、どうなるんだ?」
サルヴァンは優しく微笑んだ。
「君には新しい名前が必要だ。新しい生にふさわしい名が」
サルヴァンは丈の額にそっと手を置いた。
その掌から、温かい光がじんわりと広がる。
「今日から君は――ゼラ。この世界で生きる、新しい君の名前だ」
丈――いや、ゼラはその響きを胸の奥で反芻した。
不思議と、しっくりくる気がした。
「ゼラ……俺の、名前……」
「そう。君はゼラ。僕が見つけた“異界渡り”であり、僕の陣営にとって、とても大切な存在だ」
サルヴァンはそう言って、ゼラの手をそっと握った。
その瞳には、懐かしさと期待と、どこか危うい光が宿っていた。
「サルヴァン。僕のことはそう呼んでくれ。――ゼラ、立てるかい?」
促されるまま、ゼラはベッドから身を起こし、床に足をつけて立ち上がろうとした。
だが次の瞬間、足がぐにゃりと粘体へと戻り、ゼラは床に突っ伏した。
「ゼラ。人間の姿を心に強く描くんだ。形は意識が決める」
サルヴァンの助言に従い、ゼラは必死に“人間の足”を思い浮かべる。
しかし、どうにも形が安定しない。粘体が震え、すぐに崩れてしまう。
「ふむ……まだ難しいか」
サルヴァンは少し考え込むと、ぱん、と軽やかに二度柏手を打った。
ガチャリ、と扉が開き、一人の人物が入ってくる。
卵のように滑らかな頭部には目鼻がなく、代わりに大きく裂けた口から鋭い牙が覗いていた。
「これはドッペルゲンガー。他者の姿を写し取ることができる魔物だ」
サルヴァンはその異形に命じる。
「ドッペルゲンガー、彼の姿を写し取ってくれ」
ドッペルゲンガーが丈の姿へと変わりきった瞬間、ゼラは息を呑んだ。
そこに立っているのは、紛れもなく“自分だった頃”の姿だ。
癖のある前髪も、少し猫背気味の立ち方も、見慣れた顔も――全部そのまま。
胸の奥がざわついた。
「ゼラ。こいつを吸収するんだ。そうすれば“形”の記憶を取り込める。君が人間の姿を保つ助けになるはずだ」
サルヴァンの声は穏やかだが、拒否を許さない響きを含んでいた。
「……吸収、って。こいつ、生きてるんだろ?」
ゼラは思わず後ずさった。
ドッペルゲンガーは無表情のまま、ただゼラを見つめている。
目鼻はないはずなのに、視線を感じる気がした。
「生きているよ。でも、心配はいらない。ドッペルゲンガーは“模倣するために生まれた存在”だ。吸収されることも、その本能の一部だ」
サルヴァンは軽く微笑む。
その笑みは優しいのに、どこか冷たい。
「……でも、俺は……」
ゼラは自分の胸に手を当てた。
粘体の身体が、心臓の鼓動に合わせてわずかに脈打つ。
――俺は、人間じゃない。
――でも、だからって……。
ドッペルゲンガーが一歩、ゼラに近づいた。
丈の姿をした“それ”は、まるで自分自身が歩み寄ってくるようで、ゼラは思わず息を呑んだ。
「ゼラ」
サルヴァンの声が、背中を押す。
「君が人間の姿を得るには、“形の記憶”が必要だ。こいつを吸収すれば、君は自由に人の姿を取れるようになる。君が望むなら、元の姿にだって――」
「……っ」
ゼラの心が揺れた。
元の姿。
丈としての自分。
もう戻れないと分かっていても、その言葉は甘く響いた。
ドッペルゲンガーが、静かに腕を広げた。
まるで「さあ」と促すように。
ゼラは唇を噛んだ。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
ゼラは触手を伸ばし、ドッペルゲンガーの胸へとそっと触れた。
瞬間、ドッペルゲンガーの身体が波打ち、粘体へと崩れ始める。
ゼラの触手を伝って、その“形の情報”が流れ込んでくる。
丈の姿。
丈の声。
丈の癖。
丈の歩き方。
丈の――生きていた証。
「う……っ」
ゼラは思わず膝をついた。
吸収の感覚は、痛みではない。
だが、胸の奥が締め付けられるような苦しさがあった。
やがて、ドッペルゲンガーは完全にゼラの中へと溶け、跡形もなく消えた。
ゼラはしばらく動けなかった。
胸の奥に、重い石を飲み込んだような感覚が残っている。
「……終わったよ」
かすれた声で呟くと、サルヴァンは満足げに頷いた。
「よくやった、ゼラ。これで君は“形を持つ者”になれる。君の新しい生は、ここから始まるんだ」
ゼラはゆっくりと立ち上がった。
粘体の身体が、どこか人間の輪郭を思わせる形に揺らめいている。
だがその胸の奥には、確かに残っていた。
他者を吸収したという、重く苦い感覚が。




