第3話 女王の針
横浜地方裁判所。
法廷特有の、乾いた静けさ。
被告席に座るのは、蜂の巣に助けを求めてきたあの男だった。
顔色は悪いが、目だけは逃げていない。
「――弁護人、意見を」
裁判長の声が響く。
蜂須賀 愛は、ゆっくりと立ち上がった。
「被告は横領していません」
一言。
だが、法廷がざわつくには十分だった。
「検察側が提出した防犯カメラ映像。
確かに被告が金庫を操作しています」
愛は淡々と続ける。
「しかし、その時刻。
被告は“引き出す”操作ではなく、“凍結解除”を行っていた」
検察官が眉をひそめる。
「凍結解除?」
「はい。
社内規定では、緊急時に限り、経理担当者が単独で解除できる。
粉飾決算が発覚すれば、会社そのものが立ち行かなくなる状況でした」
愛は、綾が整理した資料を示した。
「こちらが、被告が内部告発の準備として残していたログデータです」
「異議あり!」
検察官が声を張り上げる。
「そのデータは、被告自身が作成したものでは?」
「だから何?」
愛の声は、冷たい。
「証拠能力がないと?
――では、検察側の“都合のいい証拠”だけが真実だとでも?」
法廷が静まり返る。
愛は一歩、前に出た。
「被告は嘘をつきました。
自分が口座に触れたことを、隠した」
傍聴席がざわめく。
「でも、その嘘は――
罪を隠すためではなく、真実に辿り着くための嘘です」
裁判長が、ゆっくりと頷いた。
「……続けてください」
愛は、最後の針を刺す。
「粉飾決算を主導していたのは、上司である経理部長。
検察側の提出資料には、その人物の操作ログが“欠けている”」
沈黙。
それは、致命的だった。
⸻
判決は、一部無罪。
横領の事実は認められず、被告は執行猶予付きで釈放された。
法廷を出た廊下。
「……ありがとうございました」
男は、深く頭を下げた。
「感謝はいらない」
愛は言った。
「嘘をついた代償は、あなたが一生背負う。
私は、それを“法的に”軽くしただけ」
その言葉に、男は泣いた。
⸻
蜂の巣に戻るエレベーターの中。
「……痺れました」
綾が、ぽつりと呟く。
「法廷で、あんな言い方……」
「甘くすると、相手が増長する」
愛は腕を組む。
「法は、優しさじゃ守れない」
扉が開くと、猶が待っていた。
「お疲れ様」
「当然の結果よ」
「ふふ……」
猶は、娘をまっすぐ見つめた。
「――でも、昔のあなたなら、嘘をついた時点で切ってた」
愛は、答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
女王蜂の針は、
誰かを傷つけるためではなく、
真実を逃がさないためにある。




