表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

君を愛することはない、の続きは契約書に書いてください

作者: 雨天

 結婚初夜に言われる定番の台詞には、二種類ある。

 一つは、言った本人が酔っている場合。

 もう一つは、言われた側が酔っていると決めつけている場合。


 そして私は、どちらでもない。


「君を愛することはない」


 新婚の寝室。豪奢な天蓋付きの寝台。薔薇の香。蝋燭の灯り。

 その全てが“そういう場面”のために準備されているのに、夫となった男――エリオット・グレイヴは、まるで会議室で議題を読み上げるみたいに、淡々と言った。


「承知しました」


 私は同じ調子で返した。


 沈黙。

 彼の眉が、ほんのわずかに上がる。ああ、この人は“泣かれる”か“すがられる”かを想定していたのだろう。

 想定外の返事をされた人間は、大抵その次の台詞を失う。


「……理解が早いな」


「ええ。言葉そのものは古典的ですもの。お手本通りで助かります」


 私はドレスの裾を整え、寝台には座らず、壁際の小机に向かった。小机の上に置いていた革鞄から、紙束と羽根ペンを取り出す。

 エリオットが怪訝そうに見ている。


「何をしている?」


「議事録を作ります。今後のトラブル回避のために」


「議事録?」


「はい。婚姻契約の追加条項――いわば覚書の草案です」


 私はさらさらと紙を広げた。

 エリオットは一歩、こちらへ。警戒している。いい傾向だ。油断している人ほど、面倒な後始末になる。


「君は……こんな夜に、契約の話をするのか」


「こんな夜だから、です。『君を愛することはない』と宣言された以上、誤解が生まれやすい。誤解が生まれれば噂が走り、噂が走れば社交界が騒ぎ、騒げば領地経営に影響が出ます。つまり損失です」


 私は、あらかじめ引いておいた罫線の上に、要点を書き込む。


 ――第一条:互いに相手の私的感情の不在を理由に、婚姻に伴う社会的義務の履行を怠らないこと。

 ――第二条:夜間の同室義務を免除し、別室を用意すること。

 ――第三条:外聞上の同席は必要に応じて行うが、頻度は双方協議のうえ決定すること。

 ――第四条:本覚書に反した一方は、違反一回につき銀貨百枚を相手へ支払うこと。


「……待て。第四条はなんだ」


「違反金です。実効性を担保します。言葉だけの約束は、破られますから」


 エリオットは口を開け、閉じた。

 彼の喉仏が動く。悔しそうだ。あるいは、少し焦っている。


「君は、私が約束を破ると?」


「可能性としては十分に。いまの台詞も“定番”ですから。定番の後には、定番の展開が続きます」


「定番の展開?」


「あなたが“愛している相手”を連れて来て、私を形式上の妻として扱い、最後に『お前は用済みだ』と婚約破棄――いえ、離縁ですね。そういう筋書きです」


 私は顔を上げ、にこりともしない笑みを作った。

 笑いというのは、感情ではなく道具だ。


「ですが、私は“用済み”になるつもりがありません。用済みにならないように、先に道を舗装しておくんです」


 エリオットの視線が、私の指先――条項の上を滑っていく。

 彼はようやく理解したらしい。私は悲劇の花嫁ではない。事務官なのだ。


「君は……怒っていないのか」


「怒りは行動を雑にします。私は雑な行動が嫌いです」


「では、泣かないのか」


「涙は水分です。必要なら飲みます」


 エリオットが、息を呑んだ。

 その反応は、私が想定していた“困惑”に近い。よし。


「……君の名は、フェリシアだったな」


「はい。フェリシア・アーデン。父はあなたの領の隣、アーデン伯です」


「伯爵令嬢が……なぜ、こんな契約を」


「私の趣味です。契約と帳簿は裏切りませんから」


 私は第四条の金額を、銀貨百枚から――銀貨二百枚に書き換えた。

 エリオットが反射的に「増やすな」と言いかけたのが面白い。


「増やしません。あなたが黙って署名するなら」


「脅迫か?」


「交渉です」


 私はペンを置き、紙を彼に差し出した。


「あなたが望むのは、愛のない結婚でしょう。私は“愛のない結婚が破綻しない条件”を提示しているだけです。合理的です」


 エリオットは紙を見下ろし、眉間に皺を寄せる。

 彼が“愛する相手”を私に突きつけて、私が醜く取り乱す。彼はそれを、どこかで期待していたのだろう。

 期待は、相手を支配するための装置だ。私は装置にならない。


「……君は、私が誰を愛しているか、知っているのか」


「いいえ。興味もありません。ただし、その方がこの屋敷に出入りする場合、第四条の“社交界的損失”が大きくなります。条項を一つ追加しましょう」


「追加?」


「あなたの“愛する相手”が誰であれ、屋敷の使用規則に従うこと。違反した場合の責任主体は――あなた」


 エリオットの目が細くなった。

 その瞬間、私は確信した。彼は“恋人を屋敷へ入れたい”のではない。もっと別の何かだ。


「……君は、本当に興味がないのか」


「ありません。私が興味を持つのは、実務と、数字と――」


「と?」


「安定です」


 エリオットは、しばらく黙っていた。

 蝋燭の火がぱち、と鳴る。

 彼は、紙から目を上げた。


「君は、私を怖がらないのか」


「あなたは怖がられることを望んでいるんですか?」


「……いや」


 この“いや”は本音だ。

 彼は、望んでいない。望んでいないのに、そう扱われるのが癖になっている。


「なら、怖がる必要がありません」


 私は、淡々と続けた。


「エリオット様。あなたが今夜言った台詞は、あなたの権威を示すためのものです。支配の儀式です。ですが、私は儀式に付き合いません。支配の代わりに、運用をしましょう。運用なら、勝ち負けではなく、継続が目的になります」


 エリオットは――初めて、少し笑った。

 それは勝者の笑みではない。

 困り果てた人間の、降参に近い笑みだ。


「君は……変わっている」


「そういう評価は慣れています」


「……わかった。署名しよう」


 彼は椅子を引き、机に向かった。

 羽根ペンを取り、署名欄に名を書き始める。

 その手は、意外にも震えていない。綺麗な筆跡だ。生まれつき“支配する側”の字。


「これで満足か、フェリシア」


「第一段階は」


「第一段階?」


「第二段階があります」


 彼のペン先が止まる。

 私は、次の紙を出した。


「第二段階:寝室の分離に伴う実務上の配置換え。あなたの執務時間と私の執務時間を統合し、週二回、領地の収支と施策を共同で確認します」


「……妻が領政に口を出すのか」


「口ではなく、手を出します。帳簿に」


「君は……そういう結婚を望んでいたのか」


「望んでいません。必要だからやります」


 エリオットは、しばらく紙を見つめた。

 やがて、ゆっくりとペンを置く。


「君は、私の領に何をしに来た」


 質問の形をした、探り。

 私は、答えを用意していた。


「あなたが“愛のない結婚”をすることで、誰かが得をする。私はそれが嫌なんです」


「……誰か?」


「あなたが愛していると噂されている女性がいるでしょう。ですが、私はその噂が“餌”だと踏んでいます。あなたは餌で釣られて、愛のない結婚という檻に入った。そうでしょう?」


 エリオットの目の奥が、冷たく光った。

 図星だ。


「……君は、どこまで知っている」


「知っていることより、推測の方が多いです。でも、推測は検証できます。だから第二段階です。領の数字を見れば、誰がこの婚姻で得をしたか、見えてきます」


 エリオットは息を吐いた。

 その吐息は、長い間胸に溜めていたものだ。


「……君は、味方なのか」


「味方かどうかは、契約に書いてください」


 私は淡々と言い、署名欄を指差した。

 エリオットは、今度は笑いを噛み殺すように唇を曲げ、ペンを取った。


「――フェリシア。君は、私の想像していた妻ではない」


「あなたの想像は当てになりません。定番しか言えない人の想像ですから」


「……手厳しいな」


「領政は甘くありません」


 彼は署名した。

 最後の線が引かれた瞬間、私は心の中で、静かに拍手した。


 これで、私の足場はできた。

 愛がなくても生きられる足場。

 そして――愛が芽生えても、壊れない足場。


「ところで、エリオット様」


「なんだ」


「あなたの“愛する相手”の件ですが」


 彼の肩が僅かに強張る。

 私は、そこで初めて、少しだけ声の温度を上げた。


「その噂の女性、今どこにいます?」


「……王都だ」


「王都の誰の庇護下ですか」


「……宰相だ」


 やはり。

 宰相。権力と金と、噂話を操る男。


「なら、なおさらです。あなたが“愛している”ことにされている相手は、あなたの弱点として扱われている。弱点は――契約で補強します」


「契約で……補強?」


「はい。次は“噂”の契約です。虚偽の流布に対する損害賠償。証拠の収集方法。告発の手順。王都での弁護士――いえ、法務官の選定」


 エリオットが、目を見開いた。

 初夜の寝室で、噂の訴訟戦略を語る妻。

 確かに異様だろう。


 でも、私は知っている。

 こういう“異様”が、短編では一番強い。

 定番を踏み、定番を折る。


「フェリシア」


 エリオットが、低い声で呼んだ。

 その声には、初めて、敬意が混ざっていた。


「君は……怖いな」


「今度は“定番”ではなく、あなた自身の言葉ですか?」


「そうだ」


「なら、合格です」


 私は紙束を整え、蝋燭の火の揺れの中で、彼をまっすぐ見た。


「――エリオット様。私はあなたを愛するとはまだ言いません。ですが、あなたの領を守るとは言えます。守る価値があるなら」


「守る価値があるかどうかは、数字で判断するのか」


「数字と、行動です」


 エリオットは立ち上がり、寝台の方へ視線をやった。

 次に、私を見た。

 迷いが見えた。迷いは人間らしさだ。


「……寝室は、別にする条項だったな」


「はい」


「だが、今夜は――」


 そこで彼は言葉を切り、少しだけ、困ったように笑った。


「今夜は、君に“会議”を続けてほしい」


 私は一拍、黙った。

 そして、頷いた。


「議題を提示してください。夫としてではなく、共同経営者として」


「……共同経営者」


 彼はその言葉を噛みしめるように繰り返した。

 そして、寝台ではなく、机の向かいの椅子を引いた。


「議題は、宰相だ」


「承りました」


 蝋燭がもう一度、ぱち、と鳴る。

 薔薇の香は、少しだけ薄れた気がした。


 代わりに部屋に満ちるのは、紙の匂いと、インクの匂い。

 私はその匂いが好きだ。


 愛よりも先に、信頼を。

 信頼よりも先に、手続きを。

 そして、手続きの積み重ねの先に――たぶん、恋はある。


 定番の台詞は、ここで終わり。

 続きは、契約書に書いてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ