君を愛することはない、の続きは契約書に書いてください
結婚初夜に言われる定番の台詞には、二種類ある。
一つは、言った本人が酔っている場合。
もう一つは、言われた側が酔っていると決めつけている場合。
そして私は、どちらでもない。
「君を愛することはない」
新婚の寝室。豪奢な天蓋付きの寝台。薔薇の香。蝋燭の灯り。
その全てが“そういう場面”のために準備されているのに、夫となった男――エリオット・グレイヴは、まるで会議室で議題を読み上げるみたいに、淡々と言った。
「承知しました」
私は同じ調子で返した。
沈黙。
彼の眉が、ほんのわずかに上がる。ああ、この人は“泣かれる”か“すがられる”かを想定していたのだろう。
想定外の返事をされた人間は、大抵その次の台詞を失う。
「……理解が早いな」
「ええ。言葉そのものは古典的ですもの。お手本通りで助かります」
私はドレスの裾を整え、寝台には座らず、壁際の小机に向かった。小机の上に置いていた革鞄から、紙束と羽根ペンを取り出す。
エリオットが怪訝そうに見ている。
「何をしている?」
「議事録を作ります。今後のトラブル回避のために」
「議事録?」
「はい。婚姻契約の追加条項――いわば覚書の草案です」
私はさらさらと紙を広げた。
エリオットは一歩、こちらへ。警戒している。いい傾向だ。油断している人ほど、面倒な後始末になる。
「君は……こんな夜に、契約の話をするのか」
「こんな夜だから、です。『君を愛することはない』と宣言された以上、誤解が生まれやすい。誤解が生まれれば噂が走り、噂が走れば社交界が騒ぎ、騒げば領地経営に影響が出ます。つまり損失です」
私は、あらかじめ引いておいた罫線の上に、要点を書き込む。
――第一条:互いに相手の私的感情の不在を理由に、婚姻に伴う社会的義務の履行を怠らないこと。
――第二条:夜間の同室義務を免除し、別室を用意すること。
――第三条:外聞上の同席は必要に応じて行うが、頻度は双方協議のうえ決定すること。
――第四条:本覚書に反した一方は、違反一回につき銀貨百枚を相手へ支払うこと。
「……待て。第四条はなんだ」
「違反金です。実効性を担保します。言葉だけの約束は、破られますから」
エリオットは口を開け、閉じた。
彼の喉仏が動く。悔しそうだ。あるいは、少し焦っている。
「君は、私が約束を破ると?」
「可能性としては十分に。いまの台詞も“定番”ですから。定番の後には、定番の展開が続きます」
「定番の展開?」
「あなたが“愛している相手”を連れて来て、私を形式上の妻として扱い、最後に『お前は用済みだ』と婚約破棄――いえ、離縁ですね。そういう筋書きです」
私は顔を上げ、にこりともしない笑みを作った。
笑いというのは、感情ではなく道具だ。
「ですが、私は“用済み”になるつもりがありません。用済みにならないように、先に道を舗装しておくんです」
エリオットの視線が、私の指先――条項の上を滑っていく。
彼はようやく理解したらしい。私は悲劇の花嫁ではない。事務官なのだ。
「君は……怒っていないのか」
「怒りは行動を雑にします。私は雑な行動が嫌いです」
「では、泣かないのか」
「涙は水分です。必要なら飲みます」
エリオットが、息を呑んだ。
その反応は、私が想定していた“困惑”に近い。よし。
「……君の名は、フェリシアだったな」
「はい。フェリシア・アーデン。父はあなたの領の隣、アーデン伯です」
「伯爵令嬢が……なぜ、こんな契約を」
「私の趣味です。契約と帳簿は裏切りませんから」
私は第四条の金額を、銀貨百枚から――銀貨二百枚に書き換えた。
エリオットが反射的に「増やすな」と言いかけたのが面白い。
「増やしません。あなたが黙って署名するなら」
「脅迫か?」
「交渉です」
私はペンを置き、紙を彼に差し出した。
「あなたが望むのは、愛のない結婚でしょう。私は“愛のない結婚が破綻しない条件”を提示しているだけです。合理的です」
エリオットは紙を見下ろし、眉間に皺を寄せる。
彼が“愛する相手”を私に突きつけて、私が醜く取り乱す。彼はそれを、どこかで期待していたのだろう。
期待は、相手を支配するための装置だ。私は装置にならない。
「……君は、私が誰を愛しているか、知っているのか」
「いいえ。興味もありません。ただし、その方がこの屋敷に出入りする場合、第四条の“社交界的損失”が大きくなります。条項を一つ追加しましょう」
「追加?」
「あなたの“愛する相手”が誰であれ、屋敷の使用規則に従うこと。違反した場合の責任主体は――あなた」
エリオットの目が細くなった。
その瞬間、私は確信した。彼は“恋人を屋敷へ入れたい”のではない。もっと別の何かだ。
「……君は、本当に興味がないのか」
「ありません。私が興味を持つのは、実務と、数字と――」
「と?」
「安定です」
エリオットは、しばらく黙っていた。
蝋燭の火がぱち、と鳴る。
彼は、紙から目を上げた。
「君は、私を怖がらないのか」
「あなたは怖がられることを望んでいるんですか?」
「……いや」
この“いや”は本音だ。
彼は、望んでいない。望んでいないのに、そう扱われるのが癖になっている。
「なら、怖がる必要がありません」
私は、淡々と続けた。
「エリオット様。あなたが今夜言った台詞は、あなたの権威を示すためのものです。支配の儀式です。ですが、私は儀式に付き合いません。支配の代わりに、運用をしましょう。運用なら、勝ち負けではなく、継続が目的になります」
エリオットは――初めて、少し笑った。
それは勝者の笑みではない。
困り果てた人間の、降参に近い笑みだ。
「君は……変わっている」
「そういう評価は慣れています」
「……わかった。署名しよう」
彼は椅子を引き、机に向かった。
羽根ペンを取り、署名欄に名を書き始める。
その手は、意外にも震えていない。綺麗な筆跡だ。生まれつき“支配する側”の字。
「これで満足か、フェリシア」
「第一段階は」
「第一段階?」
「第二段階があります」
彼のペン先が止まる。
私は、次の紙を出した。
「第二段階:寝室の分離に伴う実務上の配置換え。あなたの執務時間と私の執務時間を統合し、週二回、領地の収支と施策を共同で確認します」
「……妻が領政に口を出すのか」
「口ではなく、手を出します。帳簿に」
「君は……そういう結婚を望んでいたのか」
「望んでいません。必要だからやります」
エリオットは、しばらく紙を見つめた。
やがて、ゆっくりとペンを置く。
「君は、私の領に何をしに来た」
質問の形をした、探り。
私は、答えを用意していた。
「あなたが“愛のない結婚”をすることで、誰かが得をする。私はそれが嫌なんです」
「……誰か?」
「あなたが愛していると噂されている女性がいるでしょう。ですが、私はその噂が“餌”だと踏んでいます。あなたは餌で釣られて、愛のない結婚という檻に入った。そうでしょう?」
エリオットの目の奥が、冷たく光った。
図星だ。
「……君は、どこまで知っている」
「知っていることより、推測の方が多いです。でも、推測は検証できます。だから第二段階です。領の数字を見れば、誰がこの婚姻で得をしたか、見えてきます」
エリオットは息を吐いた。
その吐息は、長い間胸に溜めていたものだ。
「……君は、味方なのか」
「味方かどうかは、契約に書いてください」
私は淡々と言い、署名欄を指差した。
エリオットは、今度は笑いを噛み殺すように唇を曲げ、ペンを取った。
「――フェリシア。君は、私の想像していた妻ではない」
「あなたの想像は当てになりません。定番しか言えない人の想像ですから」
「……手厳しいな」
「領政は甘くありません」
彼は署名した。
最後の線が引かれた瞬間、私は心の中で、静かに拍手した。
これで、私の足場はできた。
愛がなくても生きられる足場。
そして――愛が芽生えても、壊れない足場。
「ところで、エリオット様」
「なんだ」
「あなたの“愛する相手”の件ですが」
彼の肩が僅かに強張る。
私は、そこで初めて、少しだけ声の温度を上げた。
「その噂の女性、今どこにいます?」
「……王都だ」
「王都の誰の庇護下ですか」
「……宰相だ」
やはり。
宰相。権力と金と、噂話を操る男。
「なら、なおさらです。あなたが“愛している”ことにされている相手は、あなたの弱点として扱われている。弱点は――契約で補強します」
「契約で……補強?」
「はい。次は“噂”の契約です。虚偽の流布に対する損害賠償。証拠の収集方法。告発の手順。王都での弁護士――いえ、法務官の選定」
エリオットが、目を見開いた。
初夜の寝室で、噂の訴訟戦略を語る妻。
確かに異様だろう。
でも、私は知っている。
こういう“異様”が、短編では一番強い。
定番を踏み、定番を折る。
「フェリシア」
エリオットが、低い声で呼んだ。
その声には、初めて、敬意が混ざっていた。
「君は……怖いな」
「今度は“定番”ではなく、あなた自身の言葉ですか?」
「そうだ」
「なら、合格です」
私は紙束を整え、蝋燭の火の揺れの中で、彼をまっすぐ見た。
「――エリオット様。私はあなたを愛するとはまだ言いません。ですが、あなたの領を守るとは言えます。守る価値があるなら」
「守る価値があるかどうかは、数字で判断するのか」
「数字と、行動です」
エリオットは立ち上がり、寝台の方へ視線をやった。
次に、私を見た。
迷いが見えた。迷いは人間らしさだ。
「……寝室は、別にする条項だったな」
「はい」
「だが、今夜は――」
そこで彼は言葉を切り、少しだけ、困ったように笑った。
「今夜は、君に“会議”を続けてほしい」
私は一拍、黙った。
そして、頷いた。
「議題を提示してください。夫としてではなく、共同経営者として」
「……共同経営者」
彼はその言葉を噛みしめるように繰り返した。
そして、寝台ではなく、机の向かいの椅子を引いた。
「議題は、宰相だ」
「承りました」
蝋燭がもう一度、ぱち、と鳴る。
薔薇の香は、少しだけ薄れた気がした。
代わりに部屋に満ちるのは、紙の匂いと、インクの匂い。
私はその匂いが好きだ。
愛よりも先に、信頼を。
信頼よりも先に、手続きを。
そして、手続きの積み重ねの先に――たぶん、恋はある。
定番の台詞は、ここで終わり。
続きは、契約書に書いてください。




