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第9話

包丁の刃がまな板を叩く音だけが、台所に響いていた。

夕暮れの光が沈み、代わりに蛍光灯の白い明かりが部屋を照らしている。

花咲ひより――あの子がリビングでかれんと笑っている。

声のトーンが少し高くて、でも耳に心地いい。

不思議な子だ。出会ったばかりなのに、

まるで前からこの家にいたように馴染んでいる。

鍋の中で煮込んだじゃがいもが柔らかくなり、

味見をすると、ほんの少しだけ甘みが強い。

いつもより、かれん好みの味になった。

……まあ、悪くない。


「いただきます!」

かれんの声に合わせて、手を合わせる。

湯気の向こうで、花咲さんが笑っている。

肉じゃがをひと口食べて、「おいしい……」と呟いた。

その声音があまりに自然で、心の奥が少し温かくなる。

「うちでは定番なんです」と答えると、

彼女は嬉しそうに頷いた。

――この時間が、少しだけ特別に感じた。

いつもと同じメニュー、同じ食卓。

けれど、今日だけは何かが違う。

湯気も、空気も、笑い声も、

全部が少し眩しく見えた。


食後、かれんが眠そうにあくびをして、

ひよりを玄関まで見送ったあと。

「またね、ひよりお姉ちゃん!」

ドアが閉まると、リビングが急に静かになった。

食卓の上には、空いた茶碗が三つ。

その数を眺めながら、

(家族がもう一人増えたみたいだ)と、

そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。

思わず苦笑して、茶碗をまとめて流しへ運ぶ。

水の音とともに食器を洗いながら、

彼女の笑顔が頭から離れなかった。


少し経ってから、玄関の扉が開いた音がした。

「ただいま」

母の声。

エプロンを外しながら振り向くと、

母がスーツの上着を脱ぎながら微笑んでいた。

「おかえり」

「……あら? 食器が三つ?」

母が台所を見て、首を傾げる。

その言葉に、かれんがぱっと顔を上げた。

「お母さん! 今日ね、ひよりお姉ちゃんが来たの!」

「ひより……?」

蓮はすぐさま口を開いた。

「今日転校してきた、同じクラスの花咲ひよりさん」

「花咲ひより……」

母が繰り返したとき、その顔がごくわずかに揺らいだような気がした。


その違和感を壊すように

「ねぇ、聞いて聞いて!」

かれんは興奮して母に飛びついた。

「私ね!一人でスーパーに行って、しょうゆ買ってきたの!

でも途中で猫ちゃんがいて、追いかけてたら道に迷っちゃって……

そしたらひよりお姉ちゃんが助けてくれたの!」

母は一瞬きょとんとしたあと、柔らかく笑った。

「まあ……かれん、一人でがんばったのね」

「うん!」

「えらいわ。お母さん、びっくりした」

母はかれんの頭を撫でた。

その手つきはとても優しくて、

それを見ていると、胸の奥が少しだけあたたかくなる。

「それで、その子が助けてくれたのね」

「うん! すっごく優しかったの!」

母は微笑んで、棚に置いていた箱を手に取る。

桜色のリボンがかかった、小さな焼き菓子の詰め合わせだった。

「これ、うちの会社で作ってるお菓子なの。

お礼に渡してきてくれる?」

「え、俺が?」

思わず声が出る。

「だって、かれんが迷惑かけちゃったんでしょう?

ちゃんとお礼をしなきゃ」

「でも……」

「はいはい、これはお母さんからのお願い。」

押しつけるように渡され、

仕方なく受け取る。

紙袋の中で、リボンがふわりと揺れた。

甘い香りがほんのりと漂い、

春の夜の空気に溶けていく。


台所の窓を少し開けると、

外の風がカーテンを揺らした。

かすかに、花の甘い香りがした。

今日という日が、

何かを変えたような気がしてならなかった。

――春の風が、まだどこかで香っている。

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