第8話
あの子の手が、小さくて、あたたかかった。
「ありがとう、お姉ちゃん」って言われたとき、
胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
迷子の女の子を送っただけ——そのつもりだったのに。
かれんちゃんが笑顔で私の手をぎゅっと握って言った。
「ねぇ、ひよりお姉ちゃん。よかったら一緒にご飯食べない?」
「えっ!?」
思わず声が漏れる。
そんな展開になるなんて思ってもみなかった。
けれど、かれんちゃんはまっすぐな目でこちらを見ている。
その無邪気さに、少し笑ってしまいそうになる。
「いいでしょ? お兄ちゃん!」
そう言ってかれんちゃんが振り返った先で、
彼——望月蓮くんは少しだけ目を見開き、
そして静かに息を整えるように言葉を選んだ。
「……花咲さんがよかったら、家に来る?」
「え、あ、えっと……」
ガーベラの花を持つ手を見つめ、一瞬考える。
ピンクの花びらが夕陽に透けて、
まるで背中を押すように優しく光っていた。
かれんちゃんの嬉しそうな顔を見て、自然と笑みがこぼれる。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
望月家は、あたたかい匂いのする家だった。
玄関を入った瞬間、どこか懐かしいような空気が流れてくる。
壁に並ぶ写真立て、木の香りのする床、
そしてリビングには穏やかな灯り。
「ひよりお姉ちゃん、ここに座って!」
かれんちゃんがクッションを運んでくる。
「ありがとう」
膝の上に置いたピンクのガーベラが、
少し揺れて笑っているように見えた。
キッチンでは蓮くんがエプロンを着けて、
静かに包丁を動かしている。
「少し時間がかかりますけど、すぐできますから」
その声は穏やかで、
でもどこか優しさの滲んだ響きだった。
「お兄ちゃんのご飯ね、すっごくおいしいんだよ!」
「ふふ、楽しみだなぁ」
そんな他愛ない会話が続いて、
部屋の空気がますますあたたかくなっていった。
やがて食卓に並んだのは、
お味噌と小鉢、そしてほかほかの肉じゃが。
湯気の向こうで、かれんちゃんが笑う。
「いただきます!」
その声に合わせて、私も手を合わせる。
ひと口食べた瞬間、思わず目を細めた。
じゃがいもがほくほくしていて、
出汁のやさしい味が舌に広がる。
「おいしい……」
ついこぼした言葉に、蓮くんが少し照れくさそうに笑った。
「よかった。うちでは定番なんです」
「お兄ちゃんね、いつも料理してくれるんだよ」
「かれんは味見係だからな」
そのやり取りが微笑ましくて、胸の奥がじんわりする。
「……いい家だね」
ついそう口にすると、蓮くんが少しだけ目を丸くした。
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
食後、食器を片付けながら蓮くんがぽつりと聞いた。
「花咲さんは……花が好きなんですか?」
「え?」
「かれんが言ってました。ガーベラの匂いがしたって」
思わず微笑む。
「うん。花屋のお姉さんがくれたの。
“春は始まりの季節だから、お守りにどうぞ”って」
「ピンクのガーベラ、ですか」
蓮くんが小さく繰り返す。
その声音がどこか柔らかくて、
胸の奥が少しだけ熱くなった。
「今日は本当にありがとう、花咲さん」
玄関まで送ってくれた蓮くんが、深く頭を下げた。
「ううん、こっちこそありがとう。ごはん、おいしかったです。かれんちゃん、また遊ぼうね」
「うん! 今度はルナも呼ぶね!」
玄関で手を振るかれんちゃんの笑顔を見ながら、
私は少し名残惜しさを感じていた。
「またね、ひよりお姉ちゃん!」
「うん、またね」
靴を履いてドアの外に出ると、
春の夜風がやわらかく頬をなでた。
手に持ったガーベラが、
街灯の光を受けてほのかに光っている。
(……また、会えるといいな)
そう心の中で呟きながら、
私はゆっくりと家路についた。




