第6話
放課後のチャイムが鳴り終わるころ、教室の空気が少しだけ軽くなった。
終礼を終えて、ランドセルに教科書をしまう。
帰りの支度をしながら、クラスメイトたちの笑い声が少しずつ遠ざかっていく。
椅子を押し込んだそのとき――背後から名前を呼ばれた。
「望月」
振り向かなくても、誰の声かすぐにわかる。
教室の入り口のほうで、西園翔がランドセルを片方の肩に引っかけて立っていた。
「なに?」
そう聞くと、西園は少しだけ目をそらして言った。
「……今日は、いつものところ行かねぇのか?」
「今日はね、ルナが忙しいみたいなの」
そう言うと、西園は「そっか」と短く返した。
その声が少しだけ小さくて、ほんのわずかに落ち込んだように聞こえた。
私は首をかしげたあと、笑顔で言う。
「じゃあ、また明日ね!」
西園は顔を上げて、少し照れくさそうに口の端を上げた。
「……あぁ、また明日」
私が手を振ると、西園も少し遅れて小さく振り返してくれた。
教室の窓から差し込む夕陽が、二人の影をゆっくりと重ねていった。
家の鍵を開けて、いつものように声を出す。
「ただいま」
返事はない。それでも言うのが、私の小さな日課。
お母さんはまだ仕事、お兄ちゃんは弓道部の練習。
静かな玄関に、自分の声だけがやさしく響く。
リビングに入ると、朝の景色が少しだけ残っていた。
食卓の上には、朝食のときに使ったコップが伏せて乾いている。
窓から入る夕陽がテーブルをオレンジ色に染めていた。
ソファに腰を下ろして、朝の会話を思い出した。
『今日の晩ごはん、肉じゃがにしようかな』
お兄ちゃんがそう言っていた。
お兄ちゃんの作る料理はどれもおいしくて、母も私も大好き。
思い出しただけでお腹が鳴りそうになる。
でも、次の瞬間ふと思い出した。
朝、お母さんが冷蔵庫を見ながら言っていたんだ。
『あら、しょうゆがなくなっちゃったわね』って。
お兄ちゃんはそのときもう部活に行っていたから知らない。
このままじゃ、せっかくの肉じゃがが作れないかもしれない。
(どうしよう……お兄ちゃん、気づいてるかな?)
少し考えて、私は顔を上げた。
「私が、買ってこよう」
お兄ちゃんが気づく前に、しょうゆを買っておけばきっと喜んでくれる。
お母さんにも、「えらいわね」って言ってもらえるかも。
それを想像したら、胸の奥がぽっとあたたかくなった。
玄関の棚の上に置いたメモ帳を開いて、ペンを走らせる。
>お兄ちゃんへ
>足りないものがあったから、いつものスーパーに行ってきます。
>ひとりで大丈夫なので、お家で待っててください。
最後の一文を書きながら、少し笑ってしまった。
だって、お兄ちゃんのことだから――
「買い物に行く」って書いたら、きっとすぐに迎えに来てしまう。
(これなら、迎えに来ないはず……! これくらい、もう一人でできるもん)
玄関の鏡の前に立って、髪を整える。
「よしっ」
ドアを開けると、春の夕風が頬をなでた。
少しひんやりしてるけど、どこかいい匂いがする。
手提げを握りしめて、街へと歩き出す。
夕暮れの光がアスファルトを染めて、影が長く伸びる。
お兄ちゃん、きっとびっくりするだろうな。
『かれん、えらいな』って、少し照れた顔で笑うんだろう。
その顔を想像したら、自然と足取りが弾んだ。
このあと、どんな素晴らしい出会いが待っているのかなんて、
そのときの私はまだ、まったく知らなかった。




