第2話
春の朝。光が丘学園へ向かう道に、ひよりの笑い声が響いていた。
「ただいま、花崎市」
小さくつぶやいて、空を見上げる。
この街に住んでいたのは、ほんの少しの間だけ。
それでも、風の匂いも、並木道の色も、どこか懐かしい。
忘れていたはずの記憶が、やさしく胸の奥で光を取り戻していくようだった。
おじいちゃんと二人暮らしの新しい生活。
今朝もひよりは、転校初日からバタバタだ。
靴下が片方見つからない、髪がうまくまとまらない。
鏡の前で慌てるひよりに、台所から笑い声が響く。
「まったく、相変わらずだなぁ。初日から迷子になるんじゃないぞ」
おじいちゃんがマグカップを差し出す。湯気から、淹れたてのコーヒーと焼きたてのトーストの香りが混ざり合った。
「へへっ、初日だから気合い入れすぎちゃったかも!もう迷子にはならないって!」
ひよりがマグカップを受け取る。祖父の瞳の奥に、一瞬だけ、微かな影が差したのをひよりは知らなかった。
「元気でいてくれれば、それでいい」
おじいちゃんは穏やかに笑って、ひよりの頭をぽんと撫でる。
「気をつけて行ってらっしゃい。いい一日を」
「うん、いってきます!」
その言葉を背に、ひよりは玄関を飛び出した。
春の空気は、ひよりの頬をやさしく撫でていく。
お気に入りの“はなうさ”マスコットがスクールバッグでゆらゆら揺れる。
信号待ちの間に、道端の猫に「おはよう」と声をかけると、猫は尻尾を立てて小さく鳴いた。
そんな何気ない瞬間さえ、ひよりにとっては“新しい日常”のひとかけらに思えた。
並木道を歩くたび、枝先の桜が風に揺れる。
そのたびに花びらが頬に触れて、くすぐったい。
街のざわめき、車の音、遠くの踏切のベル。
どれも懐かしくて、ひよりは小さく笑った。
見慣れない制服姿の自分が、まるで新しい季節の一部になったみたいに思えた。
「仲良くなれる子、いるかな?」
「どんな先輩や後輩がいるんだろ?」
「……恋とか、しちゃったりして?」
つぶやきながら、顔がほんのり赤くなる。
そんな自分に照れながらも、足取りはどんどん軽くなっていく。
心臓の鼓動まで、まるで春のリズムみたいに弾んでいた。
角を曲がった先に、校門が見えた。
白い門の上を、桜の花びらが舞う。
新しい制服のスカートを風が揺らし、ひよりはその光景に目を細めた。
「ここが、私の――」
言葉の続きを、風がさらっていく。
まだ見ぬ友達も、まだ知らない出来事も、
すべてがこれから始まる気がした。
ひよりは一歩、校門の前で立ち止まり、
胸の奥でそっとつぶやいた。
「……よし、がんばろう」
風が頬を撫でる。
ひよりはその風に向かって、満面の笑みを浮かべた。
――花咲く朝に、彼女はもう一度「はじまり」を迎える。
この笑顔が、やがて誰かの心を動かすことになるなんて。
そのときのひよりは、まだ知らなかった。




