4話
江戸氏の火矢による襲撃から数日後、流海の舟の城では、警戒が続いていた。水門の開閉は最小限に抑えられ、舟の配置は夜ごとに見直された。火を焚く場所は舟の中央に移され、灯は風を避けるように低く灯された。
沙夜は、万が一に備えた脱出の方法を検討していた。舟の城は水に浮かぶが、すべての舟が同じ速度で動けるわけではない。老朽化した舟、荷を積んだ舟、子どもや老人を乗せる舟――それぞれに適した経路と順序が必要だった。
「舟を三つに分ける。先発、護衛、後発。順に水門を抜け、北の入り江へ向かう」
沙夜はそう提案し、源蔵と藤兵衛に舟の選定を依頼した。源蔵は舟の構造を見極め、藤兵衛は補強の必要な舟に鉄板を打った。
新たに登場したのは、若き漁師の兄妹・陸と澪だった。陸は水路に通じ、澪は舟の操縦に長けていた。二人は戦で家族を失い、流海に流れ着いたばかりだった。
「北の入り江は、浅瀬が多い。舟底を軽くすれば、座礁せずに進める」
陸はそう言い、舟の荷を減らす工夫を提案した。澪は、風の向きに応じた帆の調整を行い、舟の速度を上げる方法を示した。
「風を読むのは、漁の基本。逃げる時も、同じこと」
沙夜は二人の知識を取り入れ、脱出経路の地図を描いた。水門の位置、葦の密度、風の通り道――それらを記した地図は、舟の城の中央に掲げられた。
一方、宗教者の妙蓮は、民の不安を鎮めるため、祭礼の準備を進めていた。焼け残った仏像を舟に祀り、香を焚き、祈りの場を整えた。彼女は言った。
「逃げる時こそ、心を整えねばならぬ。祈りは、足を動かす力になる」
商人の弥八は、交易品の整理を急いだ。塩は湿地に埋め、魚は干して舟に積み、薬草は布に包んで隠した。
「持てるものは持つ。持てぬものは埋める。戻れるなら、掘り出せばよい」
鍛冶職人の藤兵衛は、櫂を武器に変える工夫を施した。鉄の先を尖らせ、舟の舳先に取り付けた。
「逃げる時でも、守る手は必要だ。櫂は漕ぐだけではない」
舟大工の源蔵は、老朽化した舟を解体し、板材を新たな舟に使った。舟の数は減ったが、強度は増した。
「数より質だ。沈めば、数は意味を持たぬ」
沙夜は、脱出の順序を記録に残した。まずは子どもと老人を乗せた舟が出る。次に物資を積んだ舟が続き、最後に護衛の舟が後を守る。水門は順に開閉され、風の向きに合わせて帆が張られる。
ただし、それは「備え」であり、「実行」ではなかった。舟の城を捨てる決断は、まだ誰にも下せなかった。民はこの地に根を張り始めていた。舟の上に暮らしがあり、火があり、祈りがあった。
ある夜、沙夜は舟の先に立ち、水面を見つめた。風は北から吹き、葦は静かに揺れていた。澪が近づき、声をかけた。
「風は良い。明日なら、入り江まで行ける」
沙夜は頷いた。
「だが、まだ出る時ではない。敵の動きが見えぬ」
その言葉通り、翌朝には小田氏の舟が再び現れた。今度は交易の布ではなく、弓を備えていた。流海の水門に近づき、舟の城を見下ろす位置に停泊した。
沙夜は水門を絞り、舟の配置を変えた。弓の射程を避けるように、舟を分散させた。火は消され、灯は覆われた。
陸は水路を巡り、敵舟の動きを探った。澪は帆を畳み、舟を風に乗せて移動させた。藤兵衛は櫂を構え、源蔵は板を打ち直した。
妙蓮は祈りを続け、弥八は物資を隠した。民は静かに動き、声を潜めて備えた。
その夜、敵舟は動かなかった。風が止み、水面は鏡のように静まった。沙夜は舟の中央に立ち、地図を見つめた。
「出る時が来ぬなら、ここに留まる。だが、備えは崩さぬ」
舟の城は、静かに揺れていた。民は眠り、火は灯り、水は流れていた。




