プロローグ
永禄年間。関東の南東部、常陸国の南端に広がる霞ヶ浦は、内陸にありながら海のような広がりを持つ湖であった。水面は広く、入り江や湿地が複雑に入り組み、舟でなければ進めぬ場所も多かった。その南東部に位置する外浪逆浦は、霞ヶ浦・北浦・利根川・鰐川が交差する水域であり、満潮時には波が逆流するほどの水流の変化が激しい。水深は浅く、葦が生い茂る湿地と水門が点在し、舟運に通じた者でなければ地形を読み解くことは難しい。水上交通の要衝であると同時に、軍勢の進軍を阻む天然の障壁でもあった。
この地は、戦国期においても特異な戦略的価値を持っていた。北には常陸国の守護代・佐竹氏、西には小田氏、南には下総の江戸氏、東には鹿島・行方・稲敷郡を拠点とする大掾氏が割拠し、外浪逆浦はそのいずれにも完全には属さぬ緩衝地帯として、しばしば戦火の通り道となった。各勢力はこの水域を通じて交易や軍事行動を行い、時には水軍を派遣して舟での奇襲を仕掛けることもあった。地形の複雑さゆえに、誰もがこの地を欲しがりながらも、誰もが完全に支配しきれなかった。水門の開閉、湿地の踏破、舟の操縦――それらを熟知した者だけが、この地を活かすことができた。
また、湖の東西には鹿島神宮と香取神宮という古代からの宗教的中枢が存在し、信仰と政治が交錯する土地でもあった。両神宮は武神としての性格を持ち、戦乱の時代には加持や祭礼の場としても機能した。神職たちは領主の命を受けて戦勝祈願を行う一方で、民衆の不安を鎮める役割も担っていた。神宮の周辺には門前町が形成され、僧侶や巫女、陰陽師、修験者などが行き交い、宗派を超えた儀礼文化が根付いていた。だが、戦火が広がるにつれ、寺社は焼かれ、神職は追われ、精神的な支えとなる場は失われていった。
湖岸には塩の生産地や漁村が点在し、舟運による交易が盛んであった。塩は保存食の要であり、戦時には兵糧としての価値が高まった。漁師たちは水路を熟知し、舟を操る技術を持っていた。商人は塩や魚、材木、薬草などを積み、湖を越えて各地を結んでいた。だが、戦乱が続くにつれ、交易路は断たれ、村々は焼かれ、田畑は荒れ、民は流れ始めた。舟を失った者は歩き、歩けぬ者は語った。語りもまた、流れ始めていた。
こうした状況下で、外浪逆浦の水辺には、領主の庇護を失った者たちが次第に集まり始めていた。彼らは、戦に焼かれた村から逃れてきた農民、職を失った鍛冶職人や船大工、儀礼の場を失った宗教者、交易路を断たれた商人、そして諸国を渡り歩く芸能者や河原者たちである。いずれも定住を許されず、身分も宗派も異なる者たちだったが、共通していたのは「生き延びる」ことへの切実な願いだった。
農民たちは、焼けた田畑の記憶を抱えながら、湿地に適した作物を育てる術を模索していた。鍛冶職人は、戦で失われた道具を再び打ち直し、舟の骨を焼く火を灯した。船大工は、湖の水路を知る者として、舟の修理や水門の構造に通じていた。宗教者たちは、寺を失いながらも場を整え、加持や儀式を行った。商人は、焼け残った材木や塩を持ち寄り、交易の再開を試みた。芸能者や河原者は、語りや舞を通じて民衆の不安を和らげ、各地の情勢を伝えた。彼らはそれぞれの技術と経験を持ち寄り、互いに言葉を交わし始めていた。
河原者の中には、皮革や薬草に通じる者もいた。彼らは戦場の後始末を担い、死者を弔う技術と知識を持っていた。芸能者は、戦火の記憶を語り、舞によって民衆の心を慰めた。舟の上で語られる物語、湿地で舞われる演目、それらはこの地に集った者たちの心を結びつける糸となった。
このような者たちが集った水辺には、古くから「流海」という名があった。水が流れ、民が流れ、語りが流れ着く場所。誰もが定住を許されず、誰もが通り過ぎるはずだったこの水辺に、彼らは留まろうとしていた。流海という地名は、地形の特性だけでなく、時代の流動性と民衆の運命を象徴する言葉となっていた。舟を繋ぎ、火を灯し、言葉を交わす者たちの姿は、戦乱の世にあってなお、静かに生きることを選んだ者たちの記録である。




