困りごとなら猫にお話しを
ゆっくりと、白い猫がベランダのふちを歩く。
夜の闇の中、月を背景にして白い姿が浮かび上がる。その様子は切り取って絵画にでもできそうだ。
思わず見惚れている私の前で、その猫は口を開いた。
「——何か、お困りですか?」
若い青年のような声が、聞こえた。
この猫が発したものだと、私はなぜか理解していた。
「……え」
猫が、喋った。
驚いて、私はベランダの手すりに寄りかかったままぽかんと口を開けた。
◇
「うーん……」
部屋の中央に鎮座するローテーブルの前で、私は唸った。
目の前のパソコンにはほとんど真っ白な原稿。もうすぐ一日が終わるというのに、全く筆が進んでいなかった。
私の職業は小説家だ。
主に短編を書いているのだけど、今日は全く頭にストーリーが思い浮かばない。締切は明後日までだというのに。
「はあ……」
頬杖をつくと、思わずため息が漏れた。
原因は分かりきっている。今日のあのことが原因だ。
それを思い出すと、どうしようもなく心が重くなった。
「はあ」
またため息が漏れる。今日何度目かもわからない。
気分転換でもしようと、ベランダの大きな窓をカラカラと開けた。春のほどよく涼しい風が心地いい。
備え付けの靴を履いてベランダに出ると、腕を置いてベランダの手すりにもたれかかった。この手すりは太くて安定感があるので、腕を置いてもまだ余裕がある。
ふと上を見ると、綺麗なまん丸の月が輝いていた。今日は満月だったらしい。
「綺麗……」
思わず呟く。夜空に浮かぶ月はとても綺麗で、神秘的だ。
「何か起きたりしないかな」
腕を手すりに置いて月を見上げたまま、そう何となく思う。こんな満月の日、小説では何か特別なことが起こることが多い。
小説を書いているからだろうか。もうすっかり大人になったというのに、そんな夢みがちなことを考えてしまう。
横を向き、腕を枕のようにして目を閉じた。
何か起きてほしい。こんな憂鬱な気分を吹き飛ばす、特別な何かが。
——ストン。
そう思っていると、ふと軽い振動を感じた気がして、私は目を開けた。
目線の先には、一匹の猫がいた。
白い猫だ。艶やかな毛並みに青い瞳。
ベランダの手すりの端っこに現れた猫は、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。人間を恐れていない。飼い猫だろうか。でも首輪をしていない。
ゆっくりと、白い猫がベランダのふちを歩く。
夜の闇の中、月を背景にして白い姿が浮かび上がる。その様子は切り取って絵画にでもできそうだ。
思わず見惚れている私の前で、その猫は口を開いた。
「——何か、お困りですか?」
若い青年のような声が、聞こえた。
この猫が発したものだと、私はなぜか理解していた。
「…………え」
猫が、喋った。
驚いて、私はベランダの手すりに寄りかかったままぽかんと口を開けた。
「お困りでしたら、僕にお話しください」
驚いた声を自分の言葉に対する疑問だと思ったのか、猫が捕捉するように続けた。流暢に話される青年の声は猫の口の動きと同時に聞こえてくる。やはりこの声は猫が出しているらしい。
動揺が抜けないまま、こちらを真っ直ぐに見つめる猫に咄嗟に声を絞り出す。
「困ってなんか、ないよ」
その言葉は猫だけでなく、自分自身に対しての言葉でもあった。
そう、私は困っていることなんてない。嫌なこともない。だからこの猫に話すことも何もない。
そう自分に言い聞かせると、だんだんと動揺が収まってきた。同時に、これは何かの夢かもしれないという考えが浮かび上がってくる。
「とにかく、貴方に言うことは何もないよ」
構っている暇はない。早く原稿を書かなければ。そう言って手すりから離れて、私は部屋に戻ろうとした。
「そうですか? あなたは、とても悲しい顔をしていると思いますが」
「……」
その言葉にぴたりと動きを止める。振り向くと、青い瞳がじっとこちらを見つめていた。
……随分と鋭い猫だ。
図星を刺されて、私は押し黙った。
「胸の中に仕舞い込んでしまうより、誰かに話した方が心が軽くなりますよ」
「あはは、何それ」
押し黙ってしまった私に、猫は優しい声で言った。
知ったような口を聞く猫が面白くて、私は思わず笑った。すると深く沈んでいた胸の中が、ほんの少し軽くなったような気がした。
……この猫の言うことも、あながち間違ってないかもしれない。そう思うと、話してみようかという思いが首をもたげてきた。
これは夢なのかもしれない。それならちょっとぐらい羽目を外してもいいだろう。
また元の位置に戻って、私は手すりに腕を乗せた。
「……私ね、恋人がいたんだ」
腕に顔を乗せ、外を向いたままぽつぽつと話し出す。
いるではなく、いた。過去形になったのは、なってしまったのは今日からだ。
「今日会ってさ、別れようって、いきなり」
本当に突然のことだった。理解が追いつかなくて呆然としていた私を置いて、恋人はさっさと帰ってしまった。
「……何がだめだったのかな」
私は腕に顔を半分埋めた。
いくら考えても答えは出ない。私が悪かったのかとも思うけど、理由は思いつかなかった。
「あなたは悪くありません。あなたの価値を感じ取れなかった相手の方が愚かなのですよ。貴方はとても魅力的です」
「慰めなくてもいいよ」
優しく諭すような猫の声に、私は不貞腐れたように返した。でも自分を肯定してもらえたことが嬉しくて、気持ちが少し浮上する。
そんな私に、猫はなおも言葉を続けた。
「いいえ、あなたは優しさと勇気に満ち溢れている、素晴らしい人ですよ。僕が保証します」
その言葉に私は思わず顔を上げた。
確固たる自信を持った青い瞳と視線がかち合う。
驚くと共に、その言葉が少し引っかかって私は猫を見つめた。
「ねえ、貴方って、私のこと知ってるの?」
さっきから、まるで私のことを昔から知っているようなことを言う。
「ええ」
猫は頷くと、意外な言葉を告げた。
「僕は昔、あなたに助けられたんです」
「え? うそ、そんな覚えないよ」
本当に覚えがない。勘違いじゃないだろうか。
「本当に?」
猫はそう言って、じっとこちらを青い瞳で見つめた。
吸い込まれるような深い青。
それを見つめ返したとき、私はあっと声を出していた。
小学生の頃の話だ。学校からの帰り道で、車に轢かれそうになっていた猫がいた。
慌てて踏んだらしいブレーキの音が響く。それを見た私は、咄嗟に猫に向かって走った。
猫を抱き抱え、その勢いのまま走る。白い線の中に急いで入ると、背後を車が通り過ぎた。急いでいたのか、そのままどこかへ走り去ってしまう。
私は良かったねと声をかけて、驚いているらしい猫を地面に下ろした。確かめるように地面に降り立った猫は私からたっと離れる。その後、振り返って一言、にゃあ、と鳴いた。
こちらを見つめた瞳は今目の前にいる猫と同じ、吸い込まれるような深い青だった。
「あのときの……」
「思い出したようですね」
思わず出た呟きに、心なしか嬉しそうな声で猫が返した。
「あのとき助けられた恩を返そうと、僕はずっと返そうと思っていたんです。そして今日、悲しそうな顔をしたあなたを見つけました」
そんな昔から、と私は驚いた。私は今の今まで忘れていたと言うのに。同時にどこか嬉しいような気持ちがじわじわとあるて出てくる。
そこまで言って、猫はこちらを見つめる。その青い目が細められて、ああ、笑ったんだと思った。
「もうすっかり明るい顔になったので、僕はお役御免のようですね」
「あ、まって……」
何かお礼を言わないと。
そう思ったが、何か言う前に猫はさっとベランダのふちに登ってしまった。
「次会うときは、貴方が明るい顔をしていることを望みます」
そんなちょっとキザなセリフの後、猫はふっと消えた。驚いたが、ベランダから飛び降りたのだろうと思い直す。
「……何だったんだろ」
呟いて手すりから離れ、部屋の机の上に向かう。頭がスッキリしたので、今日はいい小説のが書けそうだ。
「そうだ、今あったことを書けばいいかも」
満月の夜、喋る猫に出会った少女。悩みを打ち明け、心を軽くしていく。
ストーリーを思い浮かべると、書きたいと言う思いがうずうずと湧き出してきた。
「……書きたい」
私は急いで机へと戻った。頭に浮かんだこの物語を、早く書き留めなければ。
鉛筆を片手に、早速物語を描き始める。
原稿に向かった心は、信じられないほどに軽くなっていた。