番外 最初で最期のバレンタイン
彼女がいなくなってから、ただぼんやりと過ごす毎日。
何度朝を迎えたことだろう。
学校にも行かずに、俊哉は今日も海に足を運んでいた。
もちろん、ほんの少しでも彼女の近くにいるために。
そんな帰り道、冷たい風が肌に痛いとさえ感じる雪の中、その人は俊哉の家の前にたたずんでいた。
家には母親もいるだろうに、中に入ることなく、わざわざ玄関の前で寒さにさらされている。
思わず足を止めてしまった俊哉は、だからといって声をかけるでもなく、ただ静かにその人を眺めていた。
「俊哉君」
俊哉の視線に気が付いたその人は、すぐに俊哉の元へ駆け寄って来る。
「こんにちは、おばさん」
「こんにちは」
微笑んだその人の顔はとても寂しそうだった。
まるで、笑っているのに泣いているよう。
「頬が真っ赤になってるわよ。ちゃんと暖かくしなくちゃね」
そう言って、己の首に巻いていたマフラーを俊哉に首に回す。
その仕草が優しくて、懐かしくて、視線を落とす。
「おばさんこそ、風邪ひいちゃいますよ。何か用事ですか?
取りあえず、寒いから中に入りましょう」
そう言って笑いかければ、その人は手に持った鞄の中から小さな箱を取り出した。
きれいに包装された赤いリボンの付いた箱を、大事そうに手に取って、愛おしそうに目を細める。
「これね、俊哉君にバレンタインデーのチョコレート。さくらからよ」
「えっ?」
「あの子ったら、俊哉君に渡したことないんでしょう?
毎年ちゃんと準備してるのに、いつも渡さないまま、結局自分で食べてたのよ。
今年も、準備してたみたいで、さっき見つけたの。もらってあげてくれない?」
なんだろう。
彼女からの思いもよらぬ贈り物に、俊哉は混乱していた。
頭の中がぐちゃぐちゃして、衝撃が走った。
上手く事実を受け止められずに、目の前に差し出された包みを茫然と見つめることしかできない。
「食べてあげて」
受け取ろうとしない俊哉の手の中に、無理やりチョコレートが押し込められる。
チョコレートを持つ俊哉の手を、冷たい掌がぎゅっと握りしめた。
「俊哉君もつらいのに・・・押しつけてごめんなさい。でも、お願い。どうか受け取ってあげて。
・・・あの子の、最初で最期のチョコレートなの」
目の前で嗚咽がこぼれる。
ごめんねとありがとうを何度も繰り返すその人の声は、涙で濡れていた。
さくらのおばさんは、いったいどんな気持ちでチョコレートを手に取ったのだろう。
その最期の贈り物を俊哉に届けることはどんなに苦しかったことだろう。
俊哉にはわからない。
受け取った俊哉の気持ちが彼にしかわからないように、きっとおばさんの悲しみも俊哉には計り知れないほど深いだろう。
冷たい雪に交じって、温かい雨粒が俊哉の手に降り注ぐ。
それは果たして誰の涙だっただろう。
冷え切っていたはずの俊哉の頬は、いつの間にかしっとりと濡れていて、かすかに熱を帯びていた。
ハッピーバレンタイン 俊哉
さくらより
挟み込まれていたメッセージカードは、涙でかすれて、上手く読むことができなかった。
大好きな君。
君がくれたチョコレートは、とてもしょっぱかった。
だけど、ありがとう。
最高のバレンタインデーになりました。
君は知ってるかな?
海の向こうでは男からも贈り物をするんだ。
君は受け取ってくれますか?
大好きなさくらへ
チョコレートに想いを込めて
宮田俊哉