噂2
講義の最中にも関わらず、ひとしきり笑った後、俊哉はふと何か思い出した様子で美羽を見た。
彼女は笑い過ぎたために目の縁に溜まった涙を、ちょうど指先で拭っているところだった。
「それはそうと、弥生さんはどうなの?」
「どうって何が?」
突然話を振られても、美羽はなんのことだかわからずにいた。
自然と首がかしげられる。
だが、理解できていない美羽をあえて俊哉は無視した。
「新入生の間で人気の薬学部の先輩をふったらしいね。それはもう盛大に」
「えっ?」
まさか己の噂話が話題に挙がるとは思わず、美羽は驚いていた。
噂が流れていること自体、美羽にとっては衝撃だった。
その衝撃を上手く言葉にすることもできずに、茫然となる。
言葉もない、といった相手を無視して俊哉は続ける。
「いや、俺もまだまだだよ。弥生さんには敵わないね」
なにが敵わないのかはさておき。
にやにやとしながら言う俊哉に、美羽はというと・・・真っ赤になってうつむいていた。
膝の上に置かれた両手はぎゅっと握りしめられている。
そんな彼女の様子をまんまと視界に収めて、美羽に気づかれないように忍び笑いをする。
「もう、仕返しのつもりでしょ。そんなにからかわないでよ」
顔を上げた彼女は目に涙を溜めていた。
それは先ほどのものとは似ても似つかない涙。
大胆にも噂の真意を直接本人に当たったかと思えば、この様に初々しい反応を見せる美羽の姿に、悪いとは思っていながら、観察せずにはいられない。
わき上がる笑いを抑えることができずに、忍ぶことなく俊哉は笑いながら美羽を眺めていた。
本当に、見ていて飽きない子だな。
「ごめん、ごめん。真っ赤になる弥生さんがかわいくて」
美羽の顔は、これ以上ないくらいに真っ赤に染まっていた。
火照った頬をぱたぱたと手であおり、必死に熱を逃がそうとする。
しかし、熱はその顔から簡単には抜けてくれそうにない。
「もうその話は終わり。それより、どうして私が告白されたことを宮田君が知ってるの?」
俊哉と目を合わせないようにしながら、美羽は密かに気になっていたことを聞いてみた。
「噂って、案外馬鹿にできないよね」
案に噂があるのは自分だけではないと言いたいのだろう、俊哉はわざと『噂』の部分を強調した。
俊哉の意図を察し、美羽は己の行動を省みずにはいられない。
なぜもう少し考えてから行動できなかったと、安易な行動に出た愚かな自分を叱るのだった。
そんな美羽の心の内を見透かしている俊哉は、追及の手を緩めない。
「それで?」
「それでって、なにが?」
美羽の声には警戒の色が濃い。
今更警戒したところで全てが遅いのだけど。
「どうしてふったの?相手は眼鏡の似合う優しそうないい男だったんだろ。
あんなにいい男をふるなんて相手の女は見る目がないって、もっぱら噂になってるよ」
相手の様子を窺うようにして恐るおそる合わせられた視線の先、美羽は己が諦めるしかないことを悟った。
今持てる勇気を必死にかき集めて視線を合わせたというのに、現実とはなんと非情なことか。
君にも吐いてもらうよと、彼の目はありありと物語っていた。
美羽は逃げるようにして目を逸らせる。
それは、彼女にできる精一杯の抵抗だった。
「だって好きでもないのに付き合えないよ」
なんと言うか、それは俊哉にとって一言で表現するなら、予想外。
「へえ、取りあえず付き合ってみようとは思わなかったの?」
「思もいません」
きっぱりと言い切った美羽の態度に、俊哉はというと、苦笑するしかない。
「弥生さんって、なんと言うか、本当にいい子だね」
過去に付き合った中に似たような女性もいなかったことはないが、ここまで潔癖な子も今時珍しい。
こうやって振り返ってみると、己の女性関係はかなり荒んでいたと思わずにはいられない。
美羽が自分とは違うのだということを知っているつもりでいたが、今、改めて理解させられた気がする。
「それに、私にも、気になる人がいるもの」
「へえ」
「なに?その意味深な返答」
「別に深い意味はないよ。ただ意外だなと思っただけ。それで、そのターゲットには告白しないの?」
「するつもりだよ」
あの初々しい反応から見て恋愛に関しては奥手なのだと思っていた。
しかし、それは俊哉の思い違いだったようで、どうやら美羽は恋愛に関しても積極的らしい。
「弥生さんのハートを射止めるなんて幸せな奴だな」
この話題が出てからずっと、正確には俊哉にからかわれてからだが、美羽は常に顔を伏せて話していた。
愉快な反応だと俊哉は満足していたのだけど、その態度が何気なく発した彼の一言で一変した。
「本当にそう思う?」
勢いよく顔を上げたかと思えば、すかさず俊哉に質問を浴びせる。
よもや押し倒さんばかりの美羽の勢いに押されて、俊哉は少しどもってしまう。
「・・・もちろん、弥生さんに嘘は付かないよ」
そう答えてみれば、先ほどまでのしおらしさが嘘のように、美羽はますます俊哉へと向かって行こうとする。
おそらく気の高ぶりからだろう、頬をほんのり上気させ、目はらんらんとしている。
目を輝かせる姿も魅力的だな、などと俊哉が余計なことを考えていると、彼は全く予想だにしていなかった攻撃を受けることとなる。
ここに来て彼女は見事な反撃に見せる。
「ではその幸せを宮田君にプレゼントします。私と付き合ってください」
それは、色々と驚かされた今日という1日の中でも最も破壊力のある、ある意味凶悪な衝撃をもって俊哉に襲いかかった。