再会
大学に入学して早くも1か月が過ぎようとしていた。
この時期になると環境の変化にも徐々になれ余裕も生まれてくる。
学生たちの目は自然と勉学以外のことにも向けられるようになっていて、その結果ある1部の要因で俊哉は煩わしさを感じていた。
講義が始まるギリギリの時間に俊哉は教室に駆け込んだ。
いくつもの机が並ぶ大きな部屋の向こう、教卓の前にはすでに教授の姿が見える。
教授が話していない姿を見る限りどうやら遅刻ではないようだ。
この教授の講義は時間通りに始まり時間通りに終わるということで有名だった。
ただし、教授がきっちり時間通りの神経質な性格だからといって学生にも同じように厳しいということはなく、講義の邪魔をしない限りは例え寝ていようが何をしても注意を受けることはない。
ザワザワと騒がしい部屋の中を素早く見渡し、声がかけられ前にさっさと狙いを定める。
その際に騒がしいスペースには視線を向けないようにして彼女たちと目を合わせないようにすること忘れてはいけない。
2つあるうちの後ろのドアの側、教授からもっとも遠い席に俊哉は腰掛ける。
3人分のスペースがあるその場所は幸いなことに空席のままだった。
さらに周囲には人があまりおらず、前の席に座っている地味で大人しそうな奴くらいだ。
俊哉が座ったと同時に開始の時刻になったらしく、午前中最後の講義は始まりを告げた。
はっきり言ってこの講義は退屈だ。
教授はひたすら教科書に載っていることを話すだけで、板書するわけでもなければ当てられることもない。
教科書にまるまる同じことが書かれているなら、こんなつまらない話を真面目に聞くなんて俊哉には無駄だとしか思えない。
講義を聞いていなくても教科書を読みさえすれば内容なんて理解できるのだから。
実際、周囲を見渡してみても寝ているものがほとんどで、教授の話に聞き入ってるものなんて片手で数えるほどしか見つからない。
もはや教授の声は眠りを誘うBGMにしかなりえなかった。
俊哉の意識もしだいに途切れそうになっていく。
そのまま何ごともなければ間違いなく、習慣にならい俊哉も眠りについていたことだろう。
しかし、講義が始まってちょうど半分が過ぎた頃、後ろのドアが小さな音を立てながら開かれた。
俊哉は教室の中の誰よりもそのドアの近くに座っていたため小さな音だろうと耳についた。
急速に眠りの世界から引き戻される。
入って来たであろう人の気配はドアを開いていったん立ち止まった後、俊哉の隣に移動した。
「ねえ、隣空いてる?」
男ではまず考えられない高い声に反応して、頬の筋肉が引きつりそうになる。
声の相手が隣に座ってしまっては、わざわざギリギリの時間に意図して来た意味がない。
しかもよりにもよって声の主は女性。
相席はかなり嫌だが無視するわけにもいかず、俊哉は顔を上げた。
そこに立っていたのは清楚な雰囲気の女性だった。
相手を見るまでは断ろうと思っていたが、大人しそうな感じの可愛らしい外見を目にすると、用意していた言葉が俊哉の口から飛び出してくることはなかった。
なにより、使うことはないはずの、用意していたものとは正反対の返答を口にしていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
俊哉は鞄を一番端に置いて、3人掛けのちょうど真ん中の席に座っていたため、女性は俊哉の横に座ることになる。
いつまでもジロジロと眺めていると失礼に当たるので早々に正面を向いた俊哉だったが、教授の話を聞くふりをしながらも視線の端ではしっかりと女性の姿を捉えていた。
静かに席に着いた女性は鞄から教科書を取り出して、そのまま鞄を膝の上に下ろす。
まだ講義は半分も残っているのに、荷物を膝の上に置いたままではさすがに疲れるだろう。
「荷物、こっちに置こうか?」
「いいの?」
「もちろん」
彼女にぴったりの可愛らしい鞄を受け取り俊哉は自分の荷物の横に置いた。
見られているため、心なしかその動きは丁寧だ。
目が合った彼女はありがとうと言って笑った。
「私、外国語学部の1年で弥生美羽って言います。よろしく」
「同じく外国語学部1年宮田俊哉。こちらこそよろしく」
わざわざ自己紹介してくれた相手にならい俊哉も名前を告げる。
笑っていた彼女は心底驚いたといった表情を浮かべた後、しきりにうなずいている。
「君があの有名な宮田君か」
「俺のこと知ってるんだ?」
自分の容姿が女性の関心を引き、かつ行動が目立つことを知っているので驚いたりはしない。
こんな人の噂などとは縁遠そうな女性にまで己の存在が知れ渡っている事実が少し複雑な気がしないでもないが、女性関係の問題に関して言えば俊哉はすでに割り切っていた。
「うん、1年の宮田君はカッコいいって女の子たちの話題の的だよ」
「まあ、実際いい男だからね、俺って」
割り切っているからこそ俊哉は謙遜などせずはっきりと言い切る。
しかし、冗談ではなくどうやら本気で言っているらしい俊哉を見ても美羽は笑っていた。
自身をいい男だと平気で言い切る俊哉も普通ではないが、そんな彼を前にして呆れるでもなく純粋に笑っている彼女も十分に普通の人間の感覚から逸脱している。
「自分で言っちゃうところがすごいよね。でもそんな姿が様になるんだからこっちとしてはお手上げ。
仕方ないなって思っちゃうよ」
花がほころぶようなというのはまさに彼女が浮かべている笑みのことを言うんだろうな。
高校時代ならまだしも、大学に入ってからはお目にかかれていなかったタイプの女性だ。
見ているだけで和む。
自然と言葉が出てくるので会話が弾む。
「ますますカッコいいだろ?」
「うん、桜の木の下で会った時よりずっと素敵だね」
くるくると回していたシャープペンの動きが止まった。
何の反応も返さない俊哉に美羽が首をかしげる。
「あれ?もしかして私の勘違いだった?
てっきり仲良く話してくれるのは前に会ったことがあるからだと思ってたんだけど・・・」
途端に曇った表情を見せる美羽に俊哉は慌てた。
その表情の変化は花がしぼんでいくようにしおらしく、申しわけない気分にさせられる。
「いや、勘違いじゃないよ。確か弥生さんが言ってるのは入学式の日だろ?
あんなにインパクトのある出会いを忘れたりしないよ」
「だよね、ちゃんとあいさつ交わしたしね」
もしかして演技かと疑いたくなるくらい美羽の変わり身は早かった。
「ああ、もちろんしっかり覚えてるよ」
演技なのかとひとつ聞いてみたい気もしたが、美羽の笑顔を見ていると不思議と知らなくてもよいのではないかという気になって、結局口に出すことはなかった。
これ以上あの日の話をしたいとも思えず、俊哉はすかさず話題の転換を図る。
「まあ、ひとつ訂正を入れるとしたら」
「入れるとしたら?」
俊哉はまさににこやかという形容詞がぴったりの、とろけるような笑みを作ってみせる。
「俺が弥生さんと仲良く話しているのは相手が可愛い女の子だからだよ」
「私が宮田君に話しかけたのも相手がカッコいい男の子だったからだよ」
やはり先ほど俊哉が抱いた疑問は間違いではなかったらしく、見事に流された。
崩れそうになる表情をありったけのプライドでもってなんとか保たせる。
「・・・」
「弥生さんって心底見た目を裏切る性格してるね。見た感じは大人しそうなのに」
「よく言われる」
堪らず俊哉は噴き出した。
前の席に座っている学生が訝しげに後ろを振り向いたのが目に入ったが、今の俊哉はそれどころではない。
押し寄せる笑いの波をやり過ごすのに必死だ。
幸いにも教授から最も離れた席に座っていたため1年の早い段階で目をつけられるといった心配はしなくてもよさそうだ。
「よく言われるって、お前、普通認めるか」
いきなり俊哉が笑いだしたものだから目の前の彼女は固まってしまった。
今の姿を見れば、大和撫子、花のほころぶような笑顔を見せる女性と同一人物だとは誰も信じないだろう。
美羽は大きな瞳をぱちぱちさせて呆けた顔で俊哉を見ている。
「まじで最高だ」
それは俊哉にとって最上級のほめ言葉だった。
今度こそ仮面を張り付けるのではなく、心からの笑みをもって手を差し出す。
「俺、弥生さんとは仲良くしていけそうだよ」
差し出された手と俊哉の顔を交互に見るという目のまわりそうな動きを繰り返すこと十数回。
美羽は今日1番の笑顔で俊哉の手を掴んだ。
咲き誇る大輪の花のように色鮮やかな笑みが眩しいくらいだ。
「私も宮田君とは仲良くしたいと思ってるよ」
重なった互いの掌を握りしめる。
「「よろしく」」
二人で奏でる二重奏が耳に心地よく響いた。