第5話 生まれた願いは儚い夢想
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忘れもしない、つい先程。
濡れネズミ三人でふかしジャガイモを買った時、「これで足りるでしょうか」と言って出した私の手首を、ディーダにガシッと掴まれた。
「お前、一体何を買う気だ……?」
手をグッと引き戻しながらまっすぐ真顔で言われてしまい、意味が分からずキョトンとしてしまった。
食べ物を買うところとしてこのお店を教えてくれたのは、誰でもない彼等自身だ。何を買うって、もちろんジャガイモに決まっている。
答えられずに首を傾げると、彼はチッと舌打ちをして私の手からひったくるように大金貨を一枚だけぶんどった。
会計カウンターの上にそれをバンッと打ち付けるようにして置いて、身を乗り出して店員さんにガンを付ける。
「おいオッサン。もし少しでも釣りをちょろまかしたら、この店ぶっ壊すからな」
完全なる彼の脅し文句に一瞬カチンときたように見えた店員だったが、カウンターに乗せられたお金を見た瞬間に、怒りを忘れたかのように納得の表情を浮かべた。
「ほぉ、この辺じゃ滅多に見ない大金だ」
そう言うと、彼は一度店の奥へと引っ込んで、ジャラジャラとお金を持って戻ってきた。
「蒸しジャガイモ一つ銅貨3枚だから、三つで9枚。お釣りは金貨9枚に銀貨9枚、それから銅貨が1枚」
頭の端でぼんやりと「ジャガイモってそんなに安いのね」と思っていると、受け取ったお釣りの枚数をきっちり確認したディーダが、フンッと鼻を鳴らして振り返ってきた。
私にお金を突き返し、ぶっきらぼうに言ってくる。
「おいババァ、ちゃんと入れとけよ」
彼からお金を受け取りながら、私は密かに釣り目の彼を「優しいな」と思った。
見ないふりで放っておくことだってできた筈なのに、こうしてわざわざ口を出して、確認して、警告までしてくれた。
不器用な子だなと思った。
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あの時のディーダや店員さんの様子を見れば、流石に私も自分が彼らから常識外れに見えてしまうのだろうという事は自覚できる。
生まれてこの方貴族でしかなかった私が持つ常識は、あくまでも貴族としてのものである。それこそ何も知らないような気でいた方がいいのかもしれない。
「チッ、あんなに金があるなら、もっと良いもん強請るんだったぜ」
そんな事をぼそっと言いながら、ディーダは最後の一口を口に放り込んだ。
いじけたようなその物言いが、年相応を思わせる。
私もジャガイモを食べながら、気が付けばまた微笑を浮かべていた。そんな自分に気が付いて、何だか不思議な気分になる。
――いつぶりだろうか。笑ったのは。
日々の忙しさが、旦那様には相手にされず、息子にも第二夫人にも邪険にされる日々が、最後に笑った日を私に思い出せなくさせていた。
だからこそ、こうして全てを失った今、笑えている自分がひどく奇妙に思えた。
きっと彼等のお陰なのだろうな、と思いながら二人を盗み見る。
彼等がこうして一緒にご飯を食べてくれなければ、そもそもあの場所で彼等と出会えていなければ、私はきっと今も尚、全てを失い行くあてもなく、それどころか心の置き場所さえ分からなくて、どうしていたか分からない。
まだ外では雨がザーザーと降っている。温かな火の前でこうして雨宿りをさせてもらえる幸運に、目を閉じた。
この場所はひどく心地よい。
埃っぽいし、雨漏りもしている。隙間風だって吹いているけれど、ここはとても温かい。
――ここに、居たいな。
心の中にポツリと生じた願いが、ただの仄かな夢想に留まって良かったなと思う。
彼らの中に入れてもらえるだなんて、そんな高望みをしてはいけない。
彼らは単に、惨めな私に同情をしてここに連れて来てくれただけなのだ。きちんと自覚していなければ、傷付くのは自分である。
ザイスドート様に棄てられた痛みさえまだ忘れられていないこの心で、もしまた何かに失望したら。せっかく私を助けてくれた彼らに、要らぬ濡れ衣を着せたくはない。
体と共に、心も雨宿りさせてもらった。だからもうこれで十分だ。
彼等みたいな子供達が《《こういう日常》》を普通に生きているのだ、大人の私が出来ないなんて弱音ははけない。
もう誰にも必要とされてはいない私だけど、生きていこう。身を寄せる場所もないけれど、それでもどうにか、私なりに。
ご飯を食べたら出ていかなくては。
まだ婚姻契約が有効である以上、伯爵家との縁は切れていない。もし万が一私の身に何かがあった時に彼等が近くに居たら、迷惑をかける事になるかもしれない。
親切にしてくれた彼等だから、私の突然の提案を受け入れてくれた優しい彼等だから、余計な事に巻き込みたくない。
だから食べたら、素性が知れる前に早く。
そう思うのに、何故だろう。瞼が全然上がってくれない。
手のひらの、食べかけのジャガイモの熱がポカポカと温かい。パチパチ、ピチョンピチョンという音が、耳にとても心地よい。
多分たくさん歩いたから、疲れてしまったのだろう。まるで体に掛かる重力が倍になったかのように重たくて、床に沈むような感覚を抱く。
あぁ、行かなくては。そう思うのに、意識がゆっくり落ちていった。
どうしても抗う事の出来ない睡魔の端で、二人の話し声が聞こえた気がした。
「ねぇ良いの? なんか寝ちゃいそうなんだけど」
「はぁ……まぁしょうがねぇだろ。今日の宿代替わりは貰ったし、外で寝たら間違いなく朝には金を盗まれてるぞコイツ。なら置いといて、また恩返しにせびれば俺達は明日も飯が食える」
「確かに合理的だけど、本気で言ってないでしょソレ」
「うっせぇよ」
クツクツと笑うノインの声に、ディーダがフンッと鼻を鳴らした。
二人の言葉の真意を考える前に、私の意識は深く落ちた。