第1話 棄てられてしまった伯爵夫人
地面に乱暴に捨てられて、顔にベシャリと泥が飛んだ。
打ち付けてくる雨に、あっという間に指先は冷える。
突然の事に混乱して、上手く頭が働かない。にも関わらず、現実は私に容赦をする気はないようだった。
「フィーリア、お前はもう要らん」
頭上から降ってきた声に顔をゆるゆると上げれば、蔑むような目と目が交わった。
「ザイズドート様……」
懇願するように上げた声は、掠れたか細い声にしかならない。
私だって分かっている。彼に助けを求めても、きっと無駄だという事は。
雨が降っていると分かっていて、私の二の腕をおもむろに掴み外まで引きずり出したのは、誰でもないザイスドート様だった。
こうして門外のぬかるんだ地面に、まるでゴミでも捨てるかのように私を投げ捨てた彼である。どうして今更情なんて、掛けてくださるのだろうか。
頭ではそう分かっているのに、どうしても一縷の可能性を捨てきれない。
あぁきっとまだ、私は彼を愛しているのだ。優しかった時の彼を、まだ忘れていないのだ。
混乱と絶望と失望のせいで、まるで靄がかかったような思考。それでも自覚できた己の本心に、昔は甘い鳶色を向けてくれていた筈の瞳が、すっかり冷え切り突き刺さる。
「『婚姻契約』は保ってやる。社交界にはお前は伏せっているという事にし、名前だけは取り上げぬ。感謝する事だ。優しいレイチェルからの、せめてのも温情なのだから」
その言い分は、最早契約上の関係だけしか残っていないという残酷な現実を突き付けてきた。
そして彼の腕――ほんの一年ほど前までは私のだった筈の所に、スルリと女性の細腕が絡まる。
「貴女には、もう帰る場所も無いですものね? ですから心の拠り所までは奪いませんわ。今までこの屋敷に住まわせてもらっていた事に感謝して、その名を胸に平民街でも強く逞しく生きてくださいな?」
ニコリと微笑んだ彼女・レイチェル様の顔には、優越感交じりの嘲笑が浮かんでいた。
第二夫人の座からザイズドート様の愛を根こそぎ攫い、息子まで奪っていっただけでは飽き足らず、今度は屋根まで取り上げるという。
何故彼女はこうも私を嫌うのか。出会った時からずっと疑問で、今も尚理由は分からない。
ただ一つだけ分かるのは、もう彼女と私は同じ舞台には立っていないという事だ。
蔑みをまったく隠さない彼女に、まるで「貴女にはもう取り繕う価値さえ無い。競うべき邪魔者でさえなくなった」と言われているかのようで、混乱に麻痺した今の心に鈍い痛みを齎した。
しかし現実は、その程度の痛みではどうやら許してくれないらしい。
「きったねぇなぁ。栄光あるこのドゥルズ伯爵家のすぐ外に落ちてるだけでも気分が悪い」
「マイゼル……」
ゴロゴロと稲光の助走を始めた空を背負った少年が、そう言った。
ちょうど先月十三歳になったばかりの、私が生んだ、私の子。目鼻立ちこそザイスドート様によく似ているものの、ウェーブかかった金髪と碧眼は私の特徴そのものだ。
それなのに、何故だろう。実母の私よりもよほど、継母のレイチェルさんに似ている。
「こんな女と血が繋がってるなんて、ホントに反吐が出る」
すっかり口癖になってしまった言葉を、心を込めて投げつけられる。
同じ言葉を初めて彼から言われたのは、たしか去年の事だっただろう。
あの時は、無意識のうちに涙が溢れ、止まらなかった。
ザイスドート様から「格上の侯爵家からやってくる令嬢だ。くれぐれも機嫌を損ねないように」と言われて、彼の為にと頑張った。
生まれた時から子爵令嬢だった私が聞くには無茶な要求が多かったけれど、彼に相談しても「頼む。我が家のためだ」と言われて懸命に努力した。屋敷回りの慣れない仕事を、体に鞭を打ってこなした。
そんな時だった、息子から初めてあんな言い様をされたのは。
既にレイチェルさんから受けた仕打ちの数々のせいで、心はボロボロに近かった。だからこの衝撃は、痛烈で深刻な打撃だった。
あまりのショックに脳が考える事を止めている内に、気が付けば息子は完全にレイチェルさんに盗られてしまっていた。今ではもう、話し方や仕草、表情までもが、彼女にすっかり染まっている。
降りしきる雨が、まるで私を罰するかのように打ち付けてくる。
あの時放心した私が悪かったのか。
息子を毅然と叱ってあげられなかったのがいけなかったのか。
そもそも無抵抗にレイチェルさんに使われるままだったのが……。
結婚をして、子を成し、家族で仲良く暮らしていく。十年以上前にザイスドート様に語ったそんな夢は、当たり前のように叶えられるものだと思っていた。
何故それが今、手の中に無いのか。何度考えても答えは出ない。
でもきっと、全てはもう遅いのだろう。
「とっとと居なくなれよ? 邪魔だから」
マイゼルが言い、傍に何かを投げてきた。
ザイスドート様が門の両脇に立っていた警備の騎士達に手で合図をすると、彼等の手によって屋敷の門が押し閉じられる。
踵を返した彼等は、格子の向こうで既に私の存在など忘れてかのように話に花を咲かせ始める。
私が昔思い描いていた『温かな家族の団欒』が、たしかにそこには存在していた。
視界がゆらりと滲んで歪む。しかしその景色さえ、最後には雄々しい鷹の紋章が描かれた立派な扉に阻まれて、最後には目の前から消えてなくなった。
あぁ、本当に私は捨てられてしまったのだ。
聞こえなくなった話し声に、そうと自覚させられる。
どうしていいか、分からない。放心して視線を落とせば、髪を伝った雨水が濡れた地面に滑り落ちていくのが見えた。
しばらくの後、思い出したように地面に視線を這わせれば、投げ捨てられた革袋を私の隣に一つ見つけた。
そろりと手を伸ばし、薄汚れてしまった革越しにたしかに感じる硬質な感触に、ほんの少しだけホッとする。
私にはもう、身を寄せるべき場所はない。四年前に起きた馬車の事故で両親と弟同時に失い、同時に継ぐ者が居ない実家も取り潰されたため、行く当てなんてどこにもない。
それでもザイスドート様の最後の温情だと信じて、手のひら大の袋を両手で拾い上げ、胸にギュッと抱きしめる。
濁った水がしたたり落ちていても、それが胸元を汚しても、もう特に気になる事はなかった。
だって今更だ。私だってもうその革袋と、似たり寄ったりの身なりになっている。
ゆらりと立ち上がったのは、漫然と、マイゼルが言った最後の言葉を守らなければならないと思ったからだ。
裾がほつれたスカートに滲み込んだ水が、足枷のように重かった。それでも歩きだし、顔に張り付く長い髪が鬱陶しくて、ぬかるむ足元に何度も足を取られかけても歩き続け、やっと「何故私は歩いているのだろう」と思ったところで、足元の水たまりの中に居る女と目が合う。
虚ろな目だった。嫁入り前と比べてずいぶんと年を取り痩せこけた自分が、一瞬誰だか分からなかった。
――こんな女、誰にも隣を求められなくて当たり前だわ。
いつからかずっとレイチェルさんに言われ続けていた言葉が、ストンと私の中に落ちた。
顔だけじゃない。手だって、ザイズドート様の腕に絡みついた細くて白い指とは比べ物にならない、荒れてボロボロになってしまった手。
捨てられてしまって、当たり前だ。そう自覚した瞬間に、私を突き動かしていた何かがプツンと切れた。
もう歩くのは、辞めてしまおう。たとえどれだけ歩いたところで、目的地も無ければ生き方だって分からない。
幕が掛かったような聴覚の端に、水たまりを叩く軽い音が引っかかったような気がしたが、特に気にはならなかった。
ただ「必要とされていない。望まれていない。ならば私はもう――」と考えた。
その時だった。
目の前を影が横切って、何かがトンッと腹部の辺りに当たったのは。