谷間の佳人
想い出を探して、老人は渓谷を行く。
あの女が逝ってしまってから、随分と永い時が過ぎたものだ。
◆
初夏の陽は、キラキラと渓流に踊る。両岸から差し伸べられた枝が、風に揺れて葉先を清流に浸す。
船縁からしなやかな指を水面に遊ばせる、佳人のようだ。
眼に眩しい柳の細枝が、カーテンのように視界を遮っている。
ネコノメソウの黄色い花が、岩がちな堤を彩っている。岸の柳を漏れる光や、土手に生える﨔のギザギザした葉を掠める太陽が、華やぐ黄色に反射する。
この草が良く育つからなのか、ここら辺りをネコノメ谷と呼ぶ。
ネコノメ谷には、小さな集落があった。
僅か5戸しかない、谷間の寒村だ。嘗ては、この渓流でしか捕れないネコノオウオが名産だった。
しかし、川魚のブームが過ぎ去り、元々少なかった村人達も、都会に移住してしまった。
村に残った少年ヘンリーは、その日の昼食を釣りに渓流までやって来た。初夏によく釣れるネコノオウオは、艶やかな銀灰色の縞模様をくねらせて、川底を優雅に泳ぐ。
細長い姿を揺らすのが、縞猫の尻尾によく似ている。それで、ネコノオウオと名前がついた。
充分な釣果を得て腰を上げたとき、対岸でがさりと音がした。猪かも知れない。熊かも知れない。
ヘンリーは、緊張の面持ちでそろそろと立ち上がる。麦わら色の短髪が微かに揺れ、焦げ茶の瞳が細長い顔に愛嬌を沿える。
少年は、直ぐには後ろを向かず、灌木の枝が揺れる対岸を見つめながら、後ずさった。
「ああ、よかった!人に会えたわ」
透き通った陽射しを浴びて、榛色の癖毛が汗ばんだ額に張り付いている。麦わら帽子に飾られた水色のリボンが、風に流れていた。
その瞳は柳の緑を映し、健康そうに焼けた顔の中で生き生きと輝く。
いかにもほっとした迷子の声は、優しいメゾソプラノである。
「下流で橋を渡ったら、なかなか戻る橋が見つからなくて」
「下流と言うと、森の入り口あたりですか?」
ヘンリー少年は声変わりの最中で、ガサガサした声で応じる。
「ええ。独りでちょっとピクニックに来たのですけれど」
「それはまた、随分遠くまで来てしまいましたねえ」
「やはり、あの橋まで遠いですか」
「ええ。そこの丸木橋をこちらに渡れば、道はありますよ」
ヘンリーが釣りをしていた土手から、少し下流には、丸木橋がかかっていた。川の向こう岸は、未開の森だ。麦わら帽子の娘さんは、あちこちかぎ裂きや擦り傷が出来ている。
「そうだ。道を教えていただくお礼に、お昼を差し上げます」
娘さんは、丸木橋を軽々と渡りきると、ヘンリーにバスケットを差し出した。彼女が手にしたバスケットには、お昼のサンドイッチが詰められているようだ。
「そんな。貴女のお食事が失くなってしまいます」
「では、そのお魚、少しだけ分けて下さらない?」
「それは構いませんが」
「それ、ネコノオウオでしょう?」
「はい」
「一度、食べてみたかったんです」
娘さんは好奇心丸出しで、ヘンリーのバケツを覗く。バケツでは、釣ったばかりのネコノオウオが、くねくねとのたうっていた。
「わたし、ダイアナって言います」
「ヘンリーです」
「草原の村に住んでます」
「僕は、ネコノメ谷の村人です」
簡単な自己紹介をしながら、2人で石の囲いを作る。焚き火の準備だ。ダイアナも、随分手慣れている。見れば、腰には小型の弓、肩には箙が掛けられていた。
使い果たしてしまったのか、矢は1本しか入っていない。
狩りの道具は使い込まれており、射手特有の革手袋を嵌めている。バスケットにサンドイッチを詰めた娘さんで、服装もワンピースなのだが。
ヘンリーの視線に気づいて、ダイアナが恥ずかしそうに笑う。
「今日は、外してばかりでした」
獲物が一匹も捕れなかったようだ。
「それで、つい、深追いしてしまいまして」
「そんな日もありますね」
「釣れない時も、あります?」
「ありますよ!」
2人は、狩りと釣りとの話を交わしながら、魚が焼けるのを待つ。
「滑りはあまり無いんですね」
「その代わり、鱗が堅いので気をつけて下さい」
ヘンリーに教わり、ダイアナも器用に串を打った。
ダイアナは狩人だけあって、血抜きに針を打つ経験を活かし、魚の串焼きも難なく手伝えたのだ。
「雉を仕留めたら、お持ちします」
「ありがとう。毎日、この辺りにおります」
サンドイッチとネコノオウオのランチを終えると、麦わら帽子のダイアナは、道を教わって帰っていった。
ヘンリーは、心に暖かいものを感じながら、その小柄ながらも骨太な背中を見送るのだった。
少年の声がバリトンになり、体格も幾分がっちりしてきた頃、2人は月夜の狩に出掛けた。
草原の村にも、ネコノメ谷の村にも、月夜の狩や漁で得た獲物には、魔法の力があると言う伝説があった。
なにも、この地方だけではない。2人の村がある国全体に点在する伝説だ。
しかし、2人の世界は狭かったので、そこまで一般的な話だとは知らなかった。それで、2つの村に同じ伝説があると言う事実に、ことのほか嬉しさを感じたのである。
魔法の力といっても、たいしたものではない。無病息災である。ありふれた言い伝えだ。
それでも、思春期の2人にとっては、魔法の力が宿ると言うだけで、ワクワクするのだ。
2人とも胸のうちで、捕れた獲物は、相手の健康を祈ってプレゼントしようと決めていた。
何度目かの月夜のことだった。
ヘンリーは、釣りの道具を持ってこなかった。
「ダイアナ、今日は見せたい場所があるんだ」
ヘンリーは、ダイアナの手を取ると、川沿いの道を森から山へと登り始めた。ダイアナは、黙ってついて行く。
「わあぁ」
月が高くなる頃、2人は滝壺にいた。遥か頭上から落ちてくる水が、岩に砕けて銀色に煌めく。草原の民であるダイアナには、初めて観る光景だった。
「これが、滝というものね?」
「そうだよ」
「綺麗ね」
「気に入ってくれて良かった」
それから、ヘンリーは大きく息を吐くと、真剣な眼差しをダイアナに送った。
「なあに」
ダイアナも、何かを察してもじもじする。月夜にダイアナの新緑の瞳は、深みを持って輝いた。
ヘンリーは、やおら手を上げると、滝壺に跳ね返る飛沫を掴んだ。ダイアナが驚いて眼を見張る。
水から出したヘンリーの骨張った指には、細い銀の鎖が握られていた。
それは、月夜の魔法であった。
夫婦と定められた2人で、月夜の滝に訪ねれば、月の鎖を得るであろう。
ネコノメ谷にだけ伝わる、不思議な言い伝えだ。そして今、2人はそれが現実なのだと知った。
「ダイアナ、ずっと側にいてほしい」
「ヘンリー」
「僕と結婚して下さい」
「ヘンリー!!」
ダイアナは、感激して、声を詰まらせた。不思議な銀の鎖を腕に巻かれながら、口をへの時に曲げて、涙をこらえている。
はっきりした返事を口に出すことは無かったが、その様子を見れば、一目瞭然だ。
ヘンリーもまた、嬉しそうに魔法の鎖を巻いて行く。
◆
穏やかな声、暖かな微笑み。ネコノメ谷のそこここに、在りし日のダイアナがいる。
2人が座ってお昼を食べた岩に求める面影は、生命力に溢れたものだ。結婚してからもしばしば出掛けた月夜の狩で通った道には、﨔の大樹が枝を広げる。
子供達は都会に行き、訪ねる人は誰もいない。友達も皆、死んでしまった。独り長生きした老人の、今も胸に生きる優しい妻。
妻は、あの魔法の滝に見守られて眠っている。
愛妻の墓守をずっとしているヘンリー老人は、ダイアナと出会った日のような陽射しの中で、今日も静かに笑っていた。
お読み下さりありがとうございました。
ネコノメソウは日本に実在しますが、ネコノオウオは創作です。
尚、この作品は、冬の童話祭2021(探しもの)参加作品です
冬童話2021には、他にも
・冬の谷間
・魔法使いの就職
・豪雪師匠の名前
・お転婆姫と暗闇の部屋
・歌う暖炉
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