9.赤の他人を盾にする
マモンの車がゆるゆると速度を落とし、止まる。
初めにラウムとマルファスとが降り、マモンの座っている座席のドアを恭しく開けた。
「――どうです? なかなかいい音がするでしょう?」
カツンとヒールの音を立てて、マモンは道路へと出る。
白煙を上げるヴァニティーを前に、彼女は優雅に金髪を掻き上げた。
「我が強欲重工の新作銃です。――もう少し、テストにお付き合いいただけますか?」
「……やりたい放題だね」
ハンドルに頬杖をついて、ベリアルはため息を零した。
外観こそ蜂の巣のようだが、ヴァニティーの車内には風穴一つ空いていない。
人間の車なら衝突の際にエアバッグが出ているところだが、ヴァニティーにそれはない。代わりに、地の底から響くような唸り声が車内を満たしている。
各種メーターやモニターは赤く明滅し、この生きた車の怒りを示しているようだ。
震えるハンドルを軽く撫で、ベリアルはドアのロックを外した。
その肩が、軽く掴まれた。
「私も出るわ」
上着の影で、ラジエルが鋭い目を向けてくる。
「君が出て、なにができるってわけ? 大人しくしてなよ、羽根無しちゃん」
「三対一よ。それに私だって、戦えないわけじゃ――」
「……正直、ラウムとマルファスはどうでもいい。あいつらなんか数にも入らない」
ベリアルの囁きに、ラジエルは口を噤む。
緑の瞳をほのかに光らせ、ベリアルは左頬の紋様をゆっくりとなぞった。
「問題はマモンだ。……正直、あいつと地上でやり合うのはかなり骨が折れる」
「逃げる気なの?」
「おや? 天使様は『逃走は卑怯者の所業』――とかおっしゃる?」
からかうような口調でたずねるベリアルに対し、ラジエルは唇に指を当てて考え込んだ。
「……問題はどうやって逃げるか。相手は敵を追い詰める事にも強欲よ」
「話が早くて逆に動揺するね。まぁいい、実のところ私にちょっとした考えがある。とりあえず君はそこで良い子にしてなさい」
「考えがあるって――」
「あ、私が『いい』って言うまで目を閉じていてね」
ラジエルの言葉も聞かず、ベリアルはドアを開けた。
マモンが目を細める。装填を終えたラウムとマルファスが銃口を向けてくる。
ベリアルはゆらりと外に出ると、スーツの皺を軽く伸ばした。
そして――両手を上げた。
「降参! 降参! 投降する!」
ラジエルが絶句した。
マモンが目を見開いた。ラウムとマルファスが動揺に肩を震わせた。
「……なんの冗談です?」
「冗談なものか! だいたい、地上で君に勝てるわけがないじゃないか!」
引きつった笑みでたずねるマモンに、ベリアルは大きく首を振った。
「私に限らず天使も悪魔も地上じゃ弱体化がかかる! でも君は地上だと強化がかかる! こんなクソゲーあってたまるか! 私はやめるぞ!」
「……その手は喰らいませんよ」
扇子をぱちぱちと閉じ開きして、マモンは鋭い目でベリアルを見る。
「貴女の舌は欺瞞の舌。どうせ偽りの降伏でしょう」
「ひどいな……」
ベリアルは肩を震わせ、目元を押さえた。緑の瞳から、大粒の涙が零れだした。
「私だって本当のことは言うよ。だいたい、君が地上じゃ敵無しなのは事実じゃないか。そのうえ、あのチートみたいな権能だ。勝てっこないよ」
ベリアルは消え入るような声で語り、うつろに笑った。
「君には欲がある……私にあるのは虚無だけ……もはや戦う気すら起きないね」
「なら、ただちに地獄へと帰還なさい。いますぐ、わたくしの目の前で」
マモンの命令に、しかしベリアルは首を横に振った。
「帰ってもいいけど……頼みがあるんだ……」
「頼み? 貴女がわたくしになにかを頼める立場にあるとでも?」
「仲間に入れてくれないか?」
ベリアルは手首で涙を拭いながら、ちらとマモンに視線を向けた。
「正直、ルシファーにもいい加減うんざりでね。それに私はこういう性分だから、刺激がないと死にたくなるんだよ。その点……君の新しいビジネスには、興味を引かれている」
「貴女のように腹の内が知れないものを招き入れるわけがないでしょう」
「――なら、私の腹を見せてやろう」
ベリアルは涙を拭っていた手を、マモンに向かって突き出す。
黒手袋を嵌めたその手を、開く。
すると先ほどまでは空だったはずの掌――その上に、金の指輪が一つ乗っていた。
ラウムとマルファスがたじろぐ。マモンが目を見開き、扇子を閉じた。
「ソロモンの指輪……」
「そうとも。地獄一の君の鑑定眼なら、これが本物だということがわかるだろう」
ベリアルは指輪を摘まむと、その表面をマモンに見せる。
いわゆる印章指輪と呼ばれるものに近い形をしている。宝石などはなく、一面に魔術的な意味を持つ模様がびっしりと刻まれている。
そして台座に当たる部分には、魔法陣のような紋があった。
シジル――悪魔を象徴する紋章だ。
「……この辺りの話は人間の世界では失伝しているけどさ。本来ソロモンの指輪は七十二の小指環が組み合わさることで、一つの大円環を成す代物だ」
金の指輪を手の内で転がして、ベリアルは不満げに唇を歪めた。
「これは、かつて私を呪縛していた小円環だ。あの忌々しい王が死んだ時に、真っ先に奪い取ってやった。――こいつを君にやるよ。それで信用できるだろう?」
「それは……」
マモンが言い淀む間にもベリアルは指輪を落とし、軽く爪先でついた。
指輪はアスファルトを転がり、ベリアルとマモンとのちょうど中間の場所で止まった。
夜闇にぼうっと輝く指輪を、ベリアルは顎でしゃくってみせる。
「ほら、持っていくといい。それを取れば、君はあのクソ王のように私を好きにできる」
「……ボス、あれは本物ですぜ」「どうします、ボス」
ラウムとマルファスが、落ちつきのない視線をマモンへと向ける。
「――全員動くな」
冷やかな声に、ラウムとマルファスは姿勢を正した。
マモンはゆっくりと掌を指輪へと向ける。目に見えない霊威によって、空気が揺れる。
しかし指輪は静かに光ったまま、ぴくりとも動かない。
「……本物のようですね。指輪は、いかなる冥式霊威の干渉を受けない」
「アスモデウスがヘマやったせいでねぇ。あいつ、王が寝てる間に盗み出そうとしたんだ」
ため息を吐くベリアルを用心深く確認しつつ、マモンは慎重に近づいた。
指輪の前に立ち、身を屈める。
白い指先が指輪に触れた。そして間もなく、マモンは指輪を掌中に納めた。
夜気に冷えた金属の質感。小さくともずしりとした重み。
――本物。高品質。金。
――何者かの命を好き勝手に使う権利の証。
「…………か、ひ、ひ」
ほんの刹那――強欲は、満足した。
そのわずかな満足が、さもしい強欲の猜疑心にごくごく小さな隙を生み出した。
それを、虚飾は見逃さなかった。
わずかに身を屈め、四肢に力を込め――爆発させる。
アスファルトを踏み砕くその音に、マモンがはっと顔を上げた。
その時には、すでにベリアルの掌はその眼前へと迫っていた。
完全な不意打ちだった。虚無の掌打が、そのまま強欲の顔面へと叩込まれるかに思えた。
しかし――見えない障壁が接触を阻む。
ベリアルの掌は、マモンの顔のほんの数センチのところで静止する。
マモンの顔が嘲笑に歪んだ。薄い笑みを浮かべたその唇が、わずかに動こうとする。
しかしその口が嘲りの言葉を吐く前に、ベリアルは呟いた。
「灼く」
爆音。強烈な閃光が闇を塗り潰す。
ベリアルの掌から噴き出した白炎は、マモンの頭部どころか上半身まで飲み込んだ。
「ぎゃあああああああ――――ッ!」
人間には不可能な声域の悲鳴がマモンの喉から迸った。
爆発的な光と熱に、ラウムとマルファスも呻き声を上げて目を覆う。
両手で顔を覆い、マモンが後ずさる。
異様に甲高い悲鳴を上げるその体に、ベリアルは容赦なく回し蹴りを叩込んだ。
感触は鈍い。やはり、見えない障壁がマモンへの攻撃を阻んでいる。
それでも、マモンは顔を覆ったまま反射的に身をすくめる。
「ヴァニティー! ゴー!」
ベリアルは叫び、大きく後方へと跳んだ。
咆哮とともにヴァニティーが発進。独りでに走るその天井に、ベリアルは着地する。
「待て――ッ」
目を覆ったままラウムが叫び、黒い羽根の渦の中に姿を消した。一方のマルファスは灼かれた視界に苦心しながらも、自分達の車へと戻ろうとする。
「眼がッ……おのれベリアル! よくも、このわたくしを……ッ!」
マモンは悪態を吐きながら、頭を振る。顔には火傷一つ無い。しかしその目は至近距離で放たれた閃光により、その鋭い視力の一部を一時的に失っていた。
生理的な涙を拭い、マモンは指輪を嵌めた手を伸ばした。
「止まれッ、ベリアル!」
指輪は――反応しなかった。
「バカなッ、これは確かに本物のはずッ! わたくしの鑑定に間違いは――ッ!」
マモンは目を見開き、指輪を見つめる。
眩んだ眼でも、強欲の鑑定眼に間違いない。間違いなく本物のソロモンの指輪だ。
ただ一つ、問題点があるとすれば――。
「違う……! これは、ベリアルの小円環ではない!」
表面に刻まれたシジルに、マモンは目を剥く。
闇と距離のせいでわからなかったが、刻まれたシジルがベリアルのものとはまるきり異なる。
序列番号は十三番。シジルの円環部分に刻まれた名前は――ベレト。
「あ、の……クソ女――ッ!」
廃工場の街に、怒りの絶叫が響き渡った。