第九十二話 潜入
メルクが招かれたフォナン伯爵の屋敷は建て替えたばかりなのか、比較的新しく流行を取り入れたモダンな外観をしていた。
建物自体も大きく、外から見ただけでいくつも部屋があることは見て取れる。近頃の貴族が好む上にではなく横に広い造りも、それだけの敷地があってこそ生きると言うものだ。
両側に警備の者たちが立つ門から屋敷まで随分と長い距離があった。
広大な敷地には緻密に手入れされた庭園が広がっていて、多くの木々や花々が出迎えてくれる。その景観を見れば、ログホルト市近隣を治めるフォナン伯爵の力はかなりのものであると知れた。
「ふふん、どうだ?」
馬車の客室の窓から屋敷周辺を観察していたメルクに、伯爵が得意気な顔で尋ねてくる。メルクはそれに対し伯爵へ顔を向けると、微笑を浮かべて頷いた。
「とても奇麗なお庭ですね。驚きました」
「はっはっは。時間があれば案内しよう。まずは自慢の客間にてゆっくりと寛いでもらおうか。さぁ、降りよう」
馬車が屋敷の入り口前で停まると、伯爵が先に降りてメルクを促してくる。そうして連れ立って歩けば、十人ほどの女中が出迎えてくれた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「うむ、変わりはないな?」
一斉に頭を下げ迎える言葉を口にした女中たちの間を、伯爵がメルクを伴ってずんずんと歩いていく。そうして何気ない声で確認をとると、顔を上げた女中たちがお互いの顔を戸惑ったように見合わせ始めた。
「うん? 一体どうした?」
「いえ……あの、旦那様。実は、このような手紙が……」
「なに?」
女中の一人が懐から封筒を取り出して渡すと、伯爵は訝し気な顔でその封筒の裏表を確認する。
「名がないな……誰からの手紙だ?」
「それが分からないのです。気付いたら、屋敷の扉の裏側に落ちていて……警備の者たちも誰も通ってはいないとのことです」
「なんだと? 門を通らなければこの屋敷の扉を開けられまい。いったいどうやって手紙など……」
女中たちの困惑がうつったかのように眉を顰め、伯爵は封筒から乱雑に手紙を取り出した。
「――っ?」
そして目を通すや否や表情を一変させると、鋭い眼を手紙を渡してきた女中に向ける。
「おい……ポルトにこの手紙は見せたか?」
「え、ええ。執事長でしたらその手紙を見せると、慌てた様子で使用人を引き連れどこかへと出掛けて行きました。「すぐに戻るので旦那様にはお待ちいただくように」と言伝が……」
「そ、そうか。ポルトが戻って来たら、私の部屋に来るように伝えろ」
それだけ言うと慌ただしく立ち去ろうとした伯爵は、思い出したかのようにメルクへと視線を向ける。
メルクへと向けられた伯爵の眼には、隠しようもない動揺の色が浮かんでいた。しかしそれでもなんとか取り繕うような笑みを浮かべると、こちらへ向けて軽い会釈をする。
「すまんな、ゼラ。私には少し用事ができた。悪いが客間で待っていてくれ――おい、誰か。このお嬢さんを客間へとお連れしろ」
「はい、かしこまりました。お客様、どうぞごちらへ」
伯爵の言葉を受け、女中の一人がメルクを促すように先に立って歩きだした。
「失礼します……」
メルクも不自然に思われないように「どうしたのかしら」と言わんばかりの顔で首を傾げた後、黙って先導する女中へついて行く。
その途中、左右を見渡して警戒するように近くにあった一つの部屋へと入って行く伯爵をさり気なく確認し、誰にも見えないように笑みを浮かべた。
作戦は驚くほど順調だった。
「申し訳ありません。旦那様は所用のため少しお待たせするとのことです」
華美な装飾品が並べられた客間へと案内されたメルクは、これまた豪華な肘掛け付きの椅子を勧められて腰を下ろした。そしてそれとほとんど同時に、案内役の女中に深々と頭を下げられる。
だが、昨夜に立てた作戦で待たされることを予期していたメルクは、余裕の表情で一つ頷いた。
「ええ、構いませんよ。けれどただ待つのでは何ですし、少し私とお話してくださいませんか? もっと傍に来てください」
(こ、こんな感じでいいのか?)
良く分からないなりに女らしさを意識して女中へと微笑みを向ければ、まともにメルク微笑を喰らった女中は照れが生じたように視線を脇へと泳がせる。
「え、と、あの……わ、私でよければ」
別にこの女中にその気があるわけではないだろうが、それでもメルクの美貌から放たれる微笑には同性をも赤面させる程度の効果はあるらしい。少しどぎまぎした様子でこちらへと近づいてくる女中。
メルクは攣りそうな頬を笑みの形に保ったまま、眼の前まで来た女中に頷いた。
「少し屈んで、私と目を合わせて」
「え? でも……」
「どうかお願いです。私、目線を合わせていないとお話しづらくて」
「は、はぁ……」
メルクの言葉に半ば押切られるかたちで、女中がスカートを押さえて膝を折った。そして座っているメルクと目の高さを合わせ、上気した頬と戸惑いを含んだ潤んだ瞳をこちらへと晒してくる。
「こ、これでいいですか?」
「ええ、ありがとう」
お互いの息さえかかりそうなほど顔を接近させた女中は、恥ずかしさからか目を少し合わせてはすぐに視線を落としたり泳がせたりしてなかなか見つめ合う形にならない。
それでもなんとか目と目が合った瞬間を見計らい、メルクは彼女の額に右手の人差し指と中指を素早く軽く押しあてた。
「『眠病』」
「あっ――」
歌うように紡がれたその魔法の言葉により、女中はメルクと合わせていた目を何の抵抗もなく瞼で覆うと、力なく椅子に腰かけたままのメルクへと倒れ掛かってくる。
「おっと」
メルクは意識を失った女中を軽く支えてやり、今まで自分が座っていた椅子へと座らせてやる。
肘掛けがついているので、余程寝相が悪くなければ転落することはないだろう。
「――ふぅ。駄目だ、やはり私にはお淑やかな喋り方など到底無理だ」
女中の意識を奪ったことで人の耳を心配する必要のなくなったメルクは、いつもの口調でしみじみと呟いた。
どうにか慣れないながらも女性らしい口調を意識してみたが、口が痒くて仕方なかった。とてもではないが長くは続けられないし、これをメルクを知っている連中――アスタードやフォルディア、イリエムと言った『一陣の風』の面々に聞かれていたとしたら大問題だ。大笑いされること必至であり、メルクもそんな恥を晒しては生きてはいけない。
(さて、ここまでは予定通りだな。伯爵の屋敷に侵入し、誰からも注意を向けられていない状況を創り出せた)
メルクの行使した『眠病』と言う魔法は、眼を合わせた相手の額に触れることで効果を発揮させる難易度の高いものだ。
そのぶん効果は絶大で、相手はすぐに睡眠状態に陥りしばらくは安らかな眠りが約束される。つまり、今ならメルクは自由に動けるのだ。
メルクは客間の入口へと近づき気配を探り、周辺に誰もいない事を確かめてから自分の胸元をまさぐった。
そして詰め物の間から小さな石――通信用の魔石を取り出す。
(伯爵はまんまと罠にかかったのかな?)
取り出した魔石に魔力を込めて耳に当て、息を殺して音を拾う。すると、魔石から人の声が微かに聞こえてくる。
「……長……が戻られました。こちらの部屋にお呼び……か?」
「……いや、私もすぐに部屋へ向かう。ポルトの奴も部屋に向かわせろ」
「かしこまりました」
話す内容と声からして、伯爵の女中と伯爵だろう。どうやらポルトと言う名の執事長が戻ってきたようだ。続いて扉の開く音と閉じる音がしたことから、伯爵は部屋を移動したのだと知れる。
(……これは便利だ。伯爵の動きが良く分かる……)
魔石から微かに聞こえる足音に耳を澄ませながら、メルクは内心で舌を巻いた。
メルクが耳に当てている魔石はアスタードから作戦のために渡された物で、伯爵の懐にこっそりと忍ばせた魔石に繋がっている。あちらの魔石にはすでにある程度の魔力が込められている。そのため、伯爵が魔石に魔力を込めずとも彼の声がこちらの魔石へと伝わってくるのだ。
ちなみに魔石自体は、不愉快極まりなかった伯爵によるお姫様抱っこの際に忍ばせたものである。
「……戻ったか」
「はい。連絡もなしに行動してしまい、申し訳ありません」
再び扉が開く音がして、そんなやり取りがなされる。おそらくは伯爵の部屋に辿り着き、ポルトと二人きりで会話しているのだろう。
謝罪したポルトと思しき男の声はしわがれ、どうやら伯爵よりも年嵩はありそうだ。
「それは構わんが……この手紙は一体どういうことだ?」
「そ、それが私にも理解できず……一体、何者がこんな手紙を――」
「――グローデル博士に危害を加えれば、貴様の不正をすべて明るみにする――忌々しいっ! どこのどいつがこのような小癪な真似をっ!」
「どこから博士の誘拐が漏れたのでしょうか……」
「知らん。考えられるのは大賢者ではあるが、奴を探ろうにも迂闊には動けん。あやつのためにどれだけの駒を失ったか」
実に腹立たし気な伯爵の言葉に、メルクは思わず吹き出しそうになった口を慌てて抑えた。魔力を込めている以上、こちらの声もあちらには届くのだ。気を付けなければなるまい。
(けど、伯爵もその手紙自体が大賢者の仕業だと知れば業腹だろうな。ふっ、なんだか気の毒だな)
「この手紙に「不正をすべて明るみにする」とありますが、例の帳簿や資料などは無事でしたか?」
「ああ、先ほど確認した。あさられた形跡はない。だが油断は禁物だ。一刻も早くなんとかせねば、公爵の手が回ってくるやもしれん……」
「たしかに……」
「それで? 貴様も確認するために屋敷を出ていたのだろう? 誰かが掘り返した形跡はなかったか?」
「いえ、ありませんでした。間違いなく博士はそこに……」
(――っ? 掘り返した形跡? 博士はそこに? お、い。おいおい、嘘だろう?)
魔石から聞こえてきた不穏な言葉に、メルクは自分の頭から血の気が引いていくのを感じた。なぜなら、その会話が意味するのは――意味してしまうのは――。
「ちっ! 馬鹿どもめが。そもそも貴様らが博士をみすみす死なさなければ……とんでもない大馬鹿どもめがっ」
そしてその伯爵の言葉で、グローデル博士の死は決定的なものとなってしまった。




