第九話 彼女と翼狼
「ガナン兄ちゃんっ!」
生きているか死んでいるかも判らないありさまのガナンに、ローが悲鳴に近い声を上げて駆け寄ろうとする。
「待てっ」
しかしメルクは繋いでいたローの手を強く引いてそれを制する。ローが驚いた顔でこちらを見上げてきた。
「お姉ちゃん?」
「よく見ろ。ガナンの左側に魔物がいる」
メルクの指差す先に、その魔物はいた。
狼に似た姿で背中から翼を生やした魔物だ。ガナンの近くで鳥を貪っている。おそらくはガナンが狩った鳥なのだろう。
「ひっ! な、なにあれ……」
ようやく魔物の姿に気付いたのか、ローが身を竦めてメルクへと抱き着いた。あんな魔物はこの山に出ることはなく、エルフの里で見かけたという話も聞かない。狼すら出ることのないこの里の子どもであるローが、その存在を知らなくても当然だろう。
「あれは『翼狼』だ。冒険者基準の危険度では『黄緑級』に相当する……何故こんなところに」
冒険者ギルドが公式に掲げている魔物の危険度は、下から上へ紫、青、緑、黄緑、黄、橙、赤、の順となっている。
それを踏まえれば目前の『翼狼』はちょうど中位。逆立ちしたってただの子どもに勝てる道理はない。ましてや大の大人でも、戦う力がなければ単なる餌だ。
弓矢を持っていたところで、ガナンとは戦いにもならなかったことだろう。
メルクとて、今世では『翼狼』の姿を見たことはなかった。こんなところに現れると知っていれば、ガナンを一人にしたりしなかったのに。いや、今まで里の者たちは当たり前のように山へ登っている。
今日、初めてあの魔物はここへ現れたと考えるのが自然だ。
「ロー、さっきの狩人のところへ行って助けを呼んでこい。はやく麓に戻ってレゾン先生か、治癒術を使える大人を呼んでくるんだっ」
「え? お、お姉ちゃんはどうするの?」
「私はガナンから『翼狼』の気を引くっ。あいつ、鳥を喰いつくしたら間違いなくガナンを喰い始めるだろうからな」
メルクは肩にかけていた頭陀袋を放り捨て、木の棒を構えた。
当然、脇目も振らずに鳥の肉を貪っている『翼狼』とて、メルクたちの存在には気付いているだろう。肉を食べながら低い声で威嚇するように唸っている。
こちらがとるに足らない存在として、獲物を横取りする気がなければ見逃すつもりなのかもしれない。
だが、メルクはガナンをこのままにしておくつもりはなかった。
「で、でも……」
「いいから行けっ。一匹だけで食べているんなら、仲間はいないはずだ。さっきの狩人のところまでなら、お前でも走ればすぐだ」
「う、でも、お姉ちゃんが――」
「私のことは良いからっ! 頼むっ。あいつを倒しても、治療が間に合わなければガナンは死んじまうんだっ! 早く治癒術師を呼んでこいっ!」
「う、うん」
しばらく逡巡した後、ローは覚悟を決めたように走り出した。その走り出したローに少しだけ『翼狼』が警戒した目を向けたが、すぐに食事を再開する。
「余裕だなぁ、犬っころ。人のダチに手ぇ出したんだ。覚悟はできてんだろうな?」
『グゥっ?』
突然、今までただひたすらに食べていただけの『翼狼』が、何かに驚いたように飛び跳ねメルクの方を振り返る。
そして、木の棒を片手にゆっくりと近づいてくる少女を見やり、気圧されたのか鳥から離れた。
これは尋常なことではない。
狼の背中から翼を生やした姿である魔物『翼狼』は、冒険者たちの間でも手強い存在として知られていた。
狼の俊敏性と獰猛さを持ち合わせながら、その背の翼で飛ぶこともできる。単体での危険度は『黄緑級』だが、『翼狼』の集団ともなれば『黄級』にはなる。さらに上位の統率者がいればその危険度は一気に『橙級』にまで跳ね上がる怖ろしい魔物なのだ。
そんな魔物が、だ。
気圧されていた。
エルフの少女に。
ただ木の棒を構えただけの、ゆっくりと近づいてくるだけの少女に。
『ぐ、グルルルゥっ』
弱気になった己を恥じるように、『翼狼』は牙を剥いて唸り声を一層低くする。自分が強者であることを相手に誇示するように、近づけば一瞬で殺してやると言わんばかりの殺気を放つ。
だがメルクにはそれが、単なるコケ脅しにしか思えなかった。
強者であるのならば、威嚇などせずかかってこればいい。一瞬で殺せるのであれば、メルクが近寄るのを待たずに迎え撃って終わらせればいい。『翼狼』には、敵愾心剥き出しのメルクを殺さないでいる理由などないのだから。
そうしない時点で、メルクにとって『翼狼』は単なる雑魚だ。
「行くぞ、犬っころっ!」
ゆっくりと近づいていたメルクは、一気に地を蹴って『翼狼』へと肉薄する。対する『翼狼』も覚悟を決めたのか、一瞬遅れながらも飛び出したメルクを迎え撃つように疾る。
『グァァっ!』
大口を開けて突っ込んでくる『翼狼』。
その体格さや筋肉量から言って、エルフの少女にしか過ぎないメルクは力負けすること必至だ。素直に木の棒を突き出したところで弾かれて終わりだろう。
「しっ!」
だからこそ猛進してきた『翼狼』の進行方向から、強引に地面を蹴って脇へ逸れる。
勢いづいて止まれない『翼狼』とすれ違う瞬間、相手がこちらへ慌てたように顔を向けた。
その右目へ右手を伸ばして木の棒を深く突き刺す。次いで『翼狼』が咄嗟に顔を背ける動きと進む力を利用して、その木の棒を一気に引き抜く。
『ギャウンっ?』
木の棒とは言え、先が尖っていれば柔らかい眼球など容易く貫ける。たとえエルフの少女が繰り出した刺突であっても、『翼狼』の眼を潰すことは可能だった。
『グ、グゥゥゥっ……グァァァっ!』
痛みと右目の視界が損なわれたことへの不快さに、『翼狼』は激高したようにめちゃくちゃに唸り散らす。
たしかにその姿は怖ろしいものだが、逆にそれだけ目の前の魔物が追い詰められている証左でもあった。
「ふん、少しは男前になったんじゃねぇーか?」
『グ、グァァっ!』
再び右手で木の棒を構えたメルクに対し、今度は『翼狼』から鋭く迫る。たいしてメルクはその場から動かない。ただ迫り来る相手へと木の棒の切っ先を向けているだけだ。
そしてお互いの距離があと十歩ほどになった時、不意に『翼狼』が飛び上がる。おそらくは木の棒を構えて動かないメルクの虚をつくための動きなのだろう。
『翼狼』の背中から生えた翼が、その動きを可能にしていた。
『グォォォっ!』
真上から大口を開けて覆いかぶさるように降ってくる狼の魔物。対するメルクは右手の木の棒の切っ先を下に向け、その場から足を一歩引き――左手に持っていた狩猟用ナイフを『翼狼』の口へと投擲する。
『ガ……』
メルクから放たれたナイフは開かれていた『翼狼』の口内へ勢いよく飛び込み、その喉を内側から深々と切り裂いた。
絶叫すら上げられず、地面へと無様に墜落する翼の生えた狼。翼は無事でももはや飛ぶことは叶わないだろう。
翼よりも大事な、命そのものを失おうとしていた。
きっと『翼狼』は、自分の身に何が起きたのかほとんど分かっていないはずだ。右目が潰され、残された左目でメルクの持つ木の棒にのみ注意を払っていたため、死角側に持つナイフが目に入らなかったのだろう。
当然、そうなるようにメルクがことさら木の棒を『翼狼』に意識させ、その視線を誘導していたのだが。
自身の右目を奪った木の棒を怖れるあまり、迂闊にも失念してしまったようだ。
本当に怖れるべきは木の棒ではなくメルク自身であることを。
メルクの動きそのものを警戒すべきであったことを。警戒していれば、もしかしたら飛び上がる瞬間に隠していたナイフを引き抜くメルクに気付けたかもしれない。
『ゥ……』
残された左目で忌々しそうにメルクを一度睨むと、口を開いた状態で『翼狼』は永遠に動かなくなった。