第五十五話 役得
湖の上に浮かぶ小舟を見つけたメルクは、そのことをトトアラに伝える。
「おい、トトアラ。あれ」
「え? あ……おーいっ!」
小舟に気付いたトトアラは、さっそく岸まで駆け寄って小舟に乗る人に向かって大声で呼びかけた。
最初は無反応だった人影も、何回目かでトトアラの声に気付いたのか船を寄せてくる。
「おう、どうなすった?」
岸に船を近づけ声をかけて来たのは、まだ若い男だった。
男はメルクとトトアラの姿を認めると、表情を緩ませ鼻の下を伸ばし始める。特にトトアラの胸の辺りを露骨に見つめるので、メルクがさっと彼女の前に出た。
「私たちは旅人なんだが、あなたはここで何をしているんだ?」
「え? 何って……そりゃあ湖の魚を獲ってるんだよ。俺は湖の東にある小さな集落で暮らしてんだが、魚を獲ってくる当番なんだ。まぁ、今日はさっぱり獲れねぇんだが」
若い男はそう言うと、釣り餌が付いた竿をひょいと持ち上げて見せる。
「あなた一人で漁を?」
「ああ。言ったろ? 小さな集落なんだ。普段は入れ食い状態でよぉ、俺一人で十分なんだ。そもそも船が一つしかねぇ。大勢来たってしかたねぇーのさ」
「……なるほど」
(この男もギルドの回し者かと思ったが……いかんな。どうにも疑心暗鬼になっている)
まだ男がどういった立場なのかはわからないが、その可能性も考慮しておいた方がいいだろう。だが辺に疑い過ぎて深みにはまる可能性もあるので、難しいところだ。
「ねぇ、お兄さん。私たちをその船に乗せてちょうだいよ。あっちの岸辺まで連れて行って」
若い男をメルクが見上げていると、彼女の肩越しから顔を出したトトアラが男にそう言ってお願いをした。
「おおっ。まぁ、別嬪さんたちにお願いされたら俺も従いたいんだがなぁ。あいにく、魚が獲れないんじゃそんな暇はねぇーな」
「ええっ!」
「あんたたちが俺を手伝って、魚を二十匹獲るのを協力してくれんなら考えてやるよ」
「そんなっ! 少しくらい融通してよ、お願い」
「うーん……」
メルクの背中から前に出たトトアラが両掌を合わせて再度頼み込むと、若い男は考える顔をしながら再びトトアラの胸元に視線を向ける。
「そ、そうだなぁ。あんたが俺に胸を揉ませてくれるって言うなら、い、い、いいぜ?」
「……絶対いや」
照れたように顔を赤くして言った若い男に、トトアラは酷く眉を顰めると、両腕で胸を隠してメルクの背に引っ込んだ。男は船の上で地団太を踏み怒り出す。
「うんだよぉ! そんなやらしい恰好して胸一つ揉ませねぇーのかよっ! ぜったい、二十匹獲れるまでは乗せてやんねぇーからなっ!」
腕を組み、そっぽを向いてしまった若い男。
こうなってしまっては、おそらく翻意は無理だろう。船を借りるためには、男の言う通りに魚を二十匹獲らなくてはなるまい。
「ご、ごめんなさい、メルク。私が胸を揉ませておけば……」
「いや、その必要はない」
(私が目を付けた胸を、他人に揉まれるなんて癪だしな)
自分勝手な独占欲を発揮してトトアラにそう言うと、メルクは湖の傍まで近寄った。
「おうおう、そんな細腕で魚なんて獲れるのか? その腰元の木の棒が魚に当たれば上出来だぜぇ」
メルクを見て小馬鹿にした漁師を無視し、メルクは湖の淵ぎりぎりまで歩み寄る。そして水面に向かって、無造作に一歩踏み出した。
そして当然、水面に触れたその足は水中へと沈み――込まなかった。
「――は?」
「え? め、メルク?」
驚く二人を余所に、メルクは水面の上を二三歩歩行する。どうやら問題なく歩けるようだ。
「ど、どうやってるの?」
「簡単な魔力操作だ。足元から魔力を適度に放出――ほら私の足元を見ろ。水面がへこんでいるだろう?」
「い、いや、へこんでいるけど……簡単ですって? そんなの普通は無理よっ!」
「コツはいるかもな。というわけで、先に行って待っておく。トトアラは二十匹捕まえて来いよ?」
「えぇーっ! 置いてくの?」
情けない声を上げたトトアラには悪いが、今さら魔力操作を教えてやる時間もない。厳しいようだが彼女には、若い男の出した条件通り魚を捕まえてもらう事にしよう。
「とりゃあっ!」
メルクがそう思って背を向けた途端、トトアラが飛び掛かってくる気配があった。ここで避けたら彼女がずぶ濡れになってしまう。
メルクは咄嗟に避けることなく、足元から放出する魔力を増やした。
「お、わ……」
少し右足が沈みかけたが、何とか踏みとどまる。
それよりも背中におんぶされるような形で飛び乗って来たトトアラを落とさないよう、彼女の尻に手を回した。
「と、トトアラ……」
「へへ、ごめんごめん。でもメルクなら、ちゃんと受け止めてくれると思ったよ」
「……」
顔のすぐ横でにっこりと微笑まれては、メルクとしてももう何も言えない。ただ小さく溜息を吐いた。
(まぁ、今さら置いていくのも悪いしな)
せっかくここまで一緒に旅をしてきたのだ。多少は親しみも覚えたし、それなりに情も湧いた。
背中に誰かを負ぶって水面を歩くのは初めてだが、この分なら問題なさそうだ。向こう岸までゆとりを持って歩けるだろう。
(しかし、この状況は……)
落ちないようにメルクの首にしっかりと腕を回しているトトアラ。密着する形になっているため当然と言えば当然だが、彼女の柔らかい双丘がメルクの背中に熱を伝えてくる。
そしてさらに言えば、自然にトトアラの尻に回してしまった手。
今さら退かすのも変だし、トトアラがずり落ちてしまってもいけない。
(む、ムズムズする。いや、ムラムラ? いや、なんかこう――あぁ)
「うん? どうしたのメルク?」
「い、いや。何でもない」
意図せぬこの幸運な事態に戸惑いつつ、メルクは冷静を装いながら湖を行く。
少しだけ歩幅を狭めて向こう岸に着くのを遅らせているのは、なにがあっても対処がしやすいようにだ。決して、そう決して女体に触れている時間を伸ばすためではない――はずだ。
「お、俺の魚……」
自身の煩悩と必死で戦っているメルクの耳に、若い男の言葉は届かなかった。




