第百二十三話 想定外
メルクの掌から放出される淡い光を視認し、近くにいたバザルが目を見開いた。
「これは『簡易治癒』じゃない――まさか、『真正治癒』なのか?」
彼の驚きようにエディンとスウェイミルが物言いたげな顔で首を傾げたが、フォルディアだけは面白そうに目を細めたようだった。
「へぇ? マジで本物の『治癒』が使えたのか。こいつはすげぇ」
「……人間で真正の『治癒術』を行使できる存在なんて僕は知らない。話に伝え聞く聖女イリエムでさえ、『真正治癒』は使えなかったはず……メルクさん。あなたはいったい――」
探るような背後からの視線と、不意打ちのように告げられた聖女の名前に苦笑を浮かべ、メルクは振り返らずに首を横に振った。
「悪いが話は後にしてくれ。『治癒術』を使っている最中に集中を切らせられるほど、私の腕は良くないんだ」
師匠であるルゾーウルムにも注意を受けたことだ。
魔力の少ない人間が用いる『簡易治癒』とは違い、エルフが使う『真正治癒』は術者にも危険が及ぶ。
最初から使用する魔力の量が決まっている人間のそれとは違い、エルフが使う『治癒術』は完全に治癒するまで無限に魔力を注げるからだ。場合によっては、術者が魔力欠乏症に陥り最悪命を落とす可能性もある。
(自分の限界なんて分かってはいるが、それでも何があるか分からないからな……)
メルクは油断なく、探るように一定の出力で魔力を放出しデネミスの病を癒し続ける。
手応えはあった。
たしかにメルクの『真正治癒』によって、『簡易治癒』でさえあまり効果がなかったと言われるデネミスの症状が改善されつつあるのは確信できる。
彼女の身体に浮かんだ内出血斑も徐々に薄くなり、微かに喘鳴の見られた呼吸状態も安定してきた。
しかし――。
「これは……」
やっかいな現実を目の前に、メルクは顔を顰めつつ声を漏らした。
「ど、どうしたんですか? め、メルクさん?」
メルクの深刻そうな声に嫌な予感がしたのか、エディンが心配げな声でおそるおそる問いかけてくる。
メルクはそれに応えずさらにデネミスに『治癒術』をしばしの間掛け続け、やがて掌を戻して一息吐くと振り向いた。
「……エディンさん」
「は、はい」
「――奥さんは無事だ。『黒痣病』は完治した」
「……へっ?」
メルクに真剣な顔でそう唐突に言われたエディンは、言葉が呑み込めなかったかのように呆気にとられた顔をする。
「ふふっ、奥さんは良くなったと言ったんだ。もう、心配する必要はない」
「あ、は……ほ、本当ですか? 本当に……本当に妻は無事……ああ、良かった……」
しかしメルクが笑いかけてやれば、エディンはようやく理解したかのように何度も力なく頷き、やがてへたり込むように床へと身を落とした。
「メルクさん……本当にデネミスさんが完治したと言えるのですか? 詳しい検査もしていないのに」
これほど呆気なく『黒痣病』が治るはずないとばかりに、バザルが険しい顔で詰め寄って来た。それに対し、メルクはあっさりと首肯する。
「ああ。魔力を注いでいても手応えがなくなったからな。『治癒術』で治すべき怪我、あるいは病が消滅した証拠なんだ。まぁ、念のため確認してくれ」
「……失礼」
バザルが診察のためにデネミスの掛布団を取り払うのを見やり、メルクはスウェイミルとフォルディアを部屋の外へと追いやった。
「な、なにをするんじゃっ」
「おい、いきなりなんだよっ」
もちろん、エディンの妻であるデネミスの容態が気になるであろう二人が抗議してくるが、メルクは後ろ手に扉を閉めて睨み付けてやる。
「お前ら、デリカシーってものがないのか? 薬術師のバザル先生や夫のエディンはともかく、見知らぬ男どもにデネミスさんが肌を見られて喜ぶと思うか?」
「む……言われてみればそりゃそうだ」
「おお、そうじゃのう。儂としたことが、うっかりしておった」
フォルディアは本当に思い至らなかったようで恐縮するように後頭部を掻いたが、スウェイミルの方はわざとらしく大袈裟に頷いている。
どうやらスウェイミルは最初からそれが目当てで残っていたようだ。メルクは呆れてしまった。
「こほんっ。しかし、さっきの『治癒』は大したもんじゃのう。あんなに魔力を注ぎ込める『治癒術』もあるんじゃなぁ」
「おやっさん。あれは人間の治癒術師が使用する『治癒』とは別だから、参考にしない方がいいぞ。それよりメルク……なにかあったのか? 病は完治したんだろう?」
メルクの物言いたげな視線を誤魔化すように、ことさら感心するスウェイミルを嗜めてから、フォルディアがこちらへ鋭い視線を向けた。おそらくは、『治癒』の最中に溢したメルクの声を気にしているのだろう。
「ああ。たしかに病は完治した……が、ちょっと厄介だな。この『黒痣病』という病は、私が想っていた以上に手強い」
「……どういう意味だ?」
「端的に言えば、症状が多岐にわたるため魔力を多く使用する……つまり、一定時間は『治癒』を掛け続けなければならないんだ」
メルクの説明に、フォルディアは不思議そうに首を傾げた。
「たしかに治療には時間がかかっていたようだが……そんなに魔力を消費したのか? 俺からしてみれば、あんたの魔力はさっきとあんまり変わらないように思えるぜ?」
「いや、これでも随分と減ってる。さすがに連続して『黒痣病』の患者四、五人に『治癒術』を使い続ければ、私だって魔力欠乏症でお陀仏だな。それに――消費する魔力量は問題じゃないんだ」
「うむ? どういうことじゃ?」
メルクとフォルディアの会話を聞いていたスウェイミルが、興味を持ったかのように問いかけてくる。メルクは彼に視線を移して頷いた。
「ああ。問題は、さっきも言ったけど『真正治癒』を比較的長い時間掛け続けなければいけないことなんだ。『治癒術』は身体に耐性ができる――長時間『治癒』を掛け続けられると、身体が『治癒』を受け付けなくなってしまう」
「それって……もしデネミスさんが『黒痣病』にもう一度感染したら、『治癒術』が効かないかもしれないってことか?」
「もしかしたら、な。仮に効果があったとしても、一度目よりも治療に時間がかかるのは間違いない。そうなると余計に『治癒術』への耐性が増してしまう。一番良いのは村から『黒痣病』を根絶し、二度と罹らないように感染源を断つことなんだ」
「うーむ。しかし一度に『治癒術』を村人全員に施すのは不可能じゃろう? どうすればいいのかのう?」
スウェイミルのそんな問い掛けの言葉と、メルクの背後の扉が開くのはほとんど同時だった。
「メルクさん……どうやらあなたの言うように、デネミスさんは完治しているようです。黒い痣は消え、腋窩や鼠径部の腫れも奇麗さっぱりなくなっています。たしかに『簡易治癒』ではなく『真正治癒』であれば、治療の効果も見込めるかと……」
自分の診察結果が信じられないのか、複雑な顔で告げたバザル。そんな彼に、メルクは口の端を吊り上げて見せる。
「ああ、そうだろうとも。けど……キレル村を救うためにはそれじゃあ駄目なんだ」
「え?」
「スウェイミルさんが、さっき『どうすればいいか』って言ったけど、やっぱりその答えは一つしかない。作る他ないだろう――『黒痣病』の特効薬を」