第百八話 大賢者の決断
アスタードによって引き剥がされ、おまけに割と苦しい思いをしたメルクに脇腹をどつかれたフォルディア。彼は「いてぇ」と呻きながら脇腹を押さえつつ、しかし心底嬉しそうにメルクの方を見下ろし続けている。
「……なんだ、気持ち悪い顔しやがって」
「いや……いやぁっ! こんなことがあるんだと思ってな? はぁ、エステルトがまさか生きてるなんてっ! それもこんなに変わっちまって……俺は人の美醜には疎いが、今のお前の容姿が世間的に見て美しいってのは分かるぞ?」
「……まぁ、エルフだしな」
胸を張ってそんな間の抜けたことの言うフォルディアの相変わらずさに呆れながら、しかしメルクはそんな変わらない彼の性根にホッとする。
アスタードと同じように、どうやらフォルディアもメルクがエステルトと言う剣士の生まれ変わりであることを信じてくれるようだ。
「懐かしいな。こうやってお前とあの頃のように会話できるなんて思わなかったぜ。あの世でお前に会ったら、ずっと……ずっと文句を言いたかったんだけどな。今は、なんでだろう? 嬉しさしかないんだ。一発は殴ろうと思ったのに……そんな姿じゃ殴る気も起きねぇーよ」
「……そいつは良かった。俺だって――いや、私だってアスタードに加えてお前にまで殴られたくはないからな」
「……エステルト?」
メルクの一人称を訝しむ様な顔をするフォルディアに、メルクはやんわりと首を横に振った。
「悪いな。さっきも言ったがその名前は前世のもので、今はメルクって名前なんだ。お前が私をエステルトとして接してくれるのは嬉しいが、それでもこの身体でもう十四年だ。お前やアスタードしかいない時はその名前でもいいかと思っていたが、いい加減に区切りをつけとかないと。人前でエステルトって呼ばれても困るしな」
「えす――そうかよ、メルク。それが、お前なりのけじめってわけだ? なら仕方ねぇーな。アスタードもメルクって呼んでいるようだし、俺もそう呼ばせてもらうぜ」
「ああ。改めてよろしくな、勇者」
「……いや。俺もフォルディアって呼んでくれよ。前から言ってるだろう? その呼び方は好きじゃねぇーんだよ」
メルクから差し出された掌を改めて握り直し、フォルディアが肩を竦めつつ苦笑した。そしてそれをやはり曖昧な笑みで見守っていたアスタードの背後から、小さな呻き声が上がる。
「――っ! ケーナ?」
声にいち早く反応したアスタードが、即座に振り返ってケーナの元へ屈みこむ。
ケーナは薄目を開け、焦点が定まらないように眼を泳がせている。そして声を掛けたアスタードを不思議そうに見上げた。
「……こ、こは」
「ケーナ、大丈夫ですか?」
「アスタード、あまり無理はさせるな。まだきちんと意識が戻ったわけじゃない」
ケーナに必死に呼び掛けるアスタードを制し、メルクもケーナへゆっくりと近づき声を掛けた。
「ケーナ。何があったか分かるか?」
「……ケーナ?」
メルクに感情の籠らない瞳を向けたケーナは、その言葉に聞き覚えがなかったかのように、瞬きしながら首を傾げる。「ケーナ」と言う、自分の名前にも拘らずだ。
「メルク?」
「……これは、厄介かもな」
ケーナの反応に戸惑ったような声で呼びかけてくるアスタードに頷き、メルクも思わず眉根を寄せた。
「私、どうしてここに……ここは……あなたたちは……だ、れ?」
小屋の中を軽く見回し、メルクとアスタードへ眼を向けてから消え入るような声で呟いた。そして重たそうに瞼を閉じると、ケーナは再び眠りについたのだった。
その様子に、アスタードは立ち上がったメルクに勢い込んで顔を近づけ問いかけてくる。
「どうしたというんです? ケーナはいったい……」
「ああ……一時的な記憶障害が見られるな。おそらくは帝国の間者に襲われ、河から落下したことで強い衝撃を受けたんだろう。それが原因だと思う」
「そんな……」
メルクの言葉に息を呑み、アスタードがよろめくように二、三歩後退した。
そんなアスタードを支えるように彼の背後から肩を掴み、フォルディアがメルクへ問いかけてくる。
「なんだ? このお嬢さんを襲ったのは帝国の奴だったのか。一人……レザウ公爵の兵士に化けてた奴は殺して埋めたが、もう一人の化け物には逃げられちまったな」
「化け物?」
「ああ、とんでもない魔力を持っていた。まだ十にもならないような見た目の童女だったが、魔力量は今のお前に近いかもな」
「……そうか。ということは、あの厄介な魔石は外したか壊れたのか……」
おそらくフォルディアが「化け物」と称したのは、グローデル博士の孫娘――テテム――に化けていたあの少女のことだろう。首から魔力を隠蔽する魔石を下げていたため見抜けなかったが、やはりただ者ではなかったようだ。
「そんなことよりケーナはどうなるんです? 記憶を元に戻せないんですか?」
やはり心配なのか、いつになく真剣な顔で尋ねてくるアスタードに、メルクは小さく息を吐きながら首を横に振った。
「私を当てにされても困るから言っておくが、この症状は治癒ではどうしようもない」
「え? そんなっ! 君の真正の治癒でも治せないんですか?」
「ああ。いいか? これは怪我でも病気でもなく、気分不良や精神的疲労などの異常でもないんだ。記憶を失っているのは強い衝撃から身を守るため――仮に治癒で無理やり治したら、どんな副作用が出るか分かったものじゃない。少しずつ時間をかけて、ケーナ自身で思い出すしかない」
メルクが「厄介かもな」と言ったのはこのためだ。
傷や外的要因による精神干渉であればメルクの治癒術で治すことは可能だ。しかし今回のケースは上手くない。ケーナ自身が攻撃されたことによる肉体的なダメージと、信じていた、あるいは守るつもりでいた少女自身に命を狙われたことによる精神的なダメージから身を守るため、記憶を喪うことを選んだのだ。
その記憶を取り戻すには、やはりケーナ自身がその衝撃に向き合う必要があるだろう。
「……ケーナの記憶は、すぐに戻るでしょうか?」
「それは何とも言えない。もしかしたら、次に目を覚ました時には全てを思い出している可能性もある。が、もう二度と戻らない可能性もある」
「……そうですか」
メルクの言葉を反芻するように数秒だけ目を閉じたアスタードは、深く頷きフォルディアへ顔を向けた。
「……フォルディア」
「なんだ?」
「申し訳ありませんが、君とチュリセ帝国へ行くことはできません」
毅然と言い切ったアスタードに、フォルディアは面白そうに口角を吊り上げる。
「へぇ、いいのか? 帝国に行けば……旧アーラタン王国領に行けばイリエムに関して何かしらの情報があるかもしれないぞ?」
「……それは気になりますが、今はイリエムよりも弟子の傍にいてやりたいんです」
一拍の間を置いて、それでもアスタードは揺るがない瞳でフォルディアを見つめたままそういった。
言い方を変えれば、この時たしかにアスタードはずっと想ってきたイリエムよりも、弟子であるケーナをとったことになる。
およそ魔法の研究とイリエム以外に興味をみせなかった大賢者が、それら以外に関心を向けた瞬間だった。
「……へへっ。しばらく会わない内に変わったな、アスタード。 けど、そういう変化は嫌いじゃねぇぜ。むしろ今のお前の方が、俺は好ましいように思う」
アスタードの言葉を多少予期しつつも、やはり意外だったのかフォルディアは楽し気に笑みを深くする。
どうやら彼にも、イリエムへ秘めたアスタードの想いは見透かされていたようだ。




