第百二話 道行きの戦士
その男は、レザウ公国のログホルト市へと続く河沿いの道を淡々と歩いていた。
背筋を伸ばしたその長身には人並外れた筋肉を纏っており、誰もが認める偉丈夫だと言えるだろう。
使い込まれていると分かる皮鎧で強靭な肉体をさらに覆い、腰元には無骨な拵えの剣を一振り身に着けている。
二十前後のような見た目をしながら様々な修羅場を潜って来たような、あるいは戦場を渡り歩いてきたような、何事にも動じない泰然としたある種の雰囲気を漂わせていた。
見る者が見れば、一目でただ者ではないと気付けるだろう。
「……うん?」
男は眼を鋭くさせると足を止め、ふと斜め上空を見た。視線の先には切り立った崖があり、そのすぐ下を河が流れている。
その崖の上から唐突に、何やら得体の知れない力が沸き上がるのを感じたのだ。
「なんだ?」
突如として沸き上がった魔力に、男が目を凝らして崖上を見ていれば、そこから何か――いや人間が落下してきたのが分かった。
男とは少し離れた場所に水飛沫を上げて入水、そのまま河の中へと沈んでいく。
水に落ちたとはいえ、あれだけの高さだ。落下した人間の安否は怪しいが、それでも男の迷いは一瞬だった。
即座に河に飛び込み救助を試みる。
その巨体に見合わず、無駄のない泳ぎで沈みゆく人影へと辿り着いた。
「――っ? 血、だと?」
そして落ちてきたのが妙齢の女性であること、その女性の左肩から右脇腹にかけて出血があることを見て取った。
慌てて河岸まで運び、意識を失ったその女性を横たわらせる。
左肩からかけていた肩掛けの鞄の帯はざっくりと裂け、しかしこれがなければ女性の身体はさらに深く斬られていたことだろう。
辛うじて息があるのは、もしかしたらこの鞄のおかげかもしれない。
「……息はある……が、時間の問題か」
出血を止めなければ、女性はまず助かるまい。だがこれだけの出血を止めるには、『簡易治癒』の使える治癒術師が不可欠だ。残念ながら男には使うことができない。
「ちっ。まずいな」
どうしたものかと悩みつつ、せめて傷口に押し当てる事のできる布でもないかと女性の鞄を開けてみる。
すると、いくつかの薬が入った容器があるではないか。それもご丁寧に、容器の外側には効能まで書かれている。
「これは好都合だが……一般人が持つにはあまりにも大袈裟じゃないか?」
あるいは最初から狙われていることが分かっていたのだろうか? 崖の上で感じた魔力といい、この娘の身体の斬り口といい、それなりの手練れに襲われたことは想像に難くない。
最初から手練れに襲われることを見越していたのだとすれば、この用意も頷けると言うものだ。
「とにかく、治療が先決か」
これだけの傷を与えて崖から落としたのだ。襲った連中がわざわざ探しに来る可能性はそれほど高くはない。
もちろん用心深い相手であれば念には念を入れて止めを刺しに来るだろうが、かと言ってここから移動している時間も惜しい。
男はこの場で娘に治療を施すことにした。
「こりゃあ『沈痛血止め薬』か。おお、有難いことに『体力回復薬』までついてるな。これならあるいは……」
これだけの大怪我だ。
いくら薬が揃っているからといって助かる保証はどこにもない。むしろこの娘の生命力、あるいは施した治療薬の効能が少しでも怪我に劣るようなことがあれば、助からない方へ針は一気に振れるだろう。
「……悪いな」
相手が若い娘ということもあり、あまり気は進まないが治療のしやすいように衣服を剥ぎ取る。そして患部へ『血止め薬』を丹念に塗布する。
雑菌やばい菌が入るのは怖いが、洗浄している暇もない。このままでは失血死は免れないため、比較的奇麗である河の水と『血止め薬』の容器にかかれた『殺菌成分配合』なる文字を信じることにしたのだ。
それから『体力回復薬』を砕いて河の水に溶かし、上半身だけ起こさせると娘の口に窒息せぬよう少しずつ流す。喉が動いて上手く嚥下できたのをたしかめそれを何度も繰り返した。
「さて……やれることはやったがどうなるか」
男は精神的疲労から来る汗を拭って一息つき、再び娘をゆっくりと横たえる。
そしてどっしりと胡坐を掻くと、
「――あと一歩でも近づけば、彼女を狙う敵と見做して迎撃させてもらうぜ」
振り返りもせず、背後へ気安い調子で声を掛けた。
「あ……バレてたか。こいつは失敬」
男が改めて首だけを捻って背後を見れば、兵士姿の男が後頭部に手をやり愛想笑いを浮かべている。
男の着けている鎧に描かれた紋章に記憶を辿れば、どうやら公国を治めるレザウ公爵の兵らしい。
「俺はレザウ公爵に仕える兵士だ。どうやらその女の命を助けたようだが、そいつは公爵の側近を殺した人殺しだ。悪いが譲ってもらえないか? 裁かなくてはならん」
「……ほう? なら怪我を治療し動けるようになった後、俺が公爵の元へと連れて行こう。それでいいな?」
「なに?」
男の返答に、兵士は意外そうな顔をする。
そんな兵士に向け、男はさも当然と言わんばかりの顔をして何度も頷いた。
「当り前だろう? こうして捕まえ、命まで助けてやったんだぜ? 俺にも公爵から報奨をもらう権利くらいあるだろう?」
「……」
「じゃなきゃ無駄骨だぜ。こんなにびしょびしょになってよぉ」
肩まで竦めて見せた男に何を思ったのか、兵士は鋭い眼で彼をしばし睨み付ける。だが、少し間を置いて目を逸らすと、「ふっ」と笑みを浮かべた。
「……なるほど、お前さんの言い分ももっともだ。それじゃあ、必ず公爵のところへ連れて来てくれよ」
「あいよ」
兵士が背を向けたため、男も捻っていた首を戻して娘の方へ視線を向け――
「死ねぇっ!」
――た途端、兵士が抜剣し男へと素早く迫っていた。
その動きはとても素早く、胡坐を掻いて背を向けたままの男が立ち上がって反撃する暇はない。
「……やれやれ」
だからなのかどうか、男は立ち上がらなかった。
立ち上がらずに抜いた剣で、背後を見ることもなく迫って来た兵士を真一文字に切り裂いたのだ。
「――あ? はぁ……」
男の後頭部へと突き入れた自身の剣が、首を傾げただけで躱され不発に終わったことを兵士は悟る――それはいい。たしかに不意打ちの一突きを、最小限の動きで躱されたのは驚くべきことだが、偶然ということもある。
だが、背を向けたまま身体をわずかに捻っただけで、こちらの胴を鎧ごと断つ一閃を振るえるとは到底信じられない。兵士に扮した男はその常軌を逸した現実を前に思考が止まり、そして生きる行為そのものが止まってしまった。
身体が二つに断たれた兵士姿の男に同情的な目を向けると、男は「気だるい」と言わんばかりに首を横に振った。
「だから言っただろうが。『それ以上近づけば、迎撃する』ってよ。さて……あんたはどうする?」
ゆっくりと立ち上がりながら血のついた剣を払い、緩慢な動作で男が振りむけば、こちらを鋭い眼で見上げる幼い少女が一人。
「あんたがただの童女じゃねぇってことくらい、気配でわかるぜ。だから別に、剣を向けるのに抵抗はねぇ。抵抗はねぇんだが……退いちゃもらえねぇーか、お嬢さん? 怪我人を前に大暴れはしたくないんでね」
「……貴様、何者だ?」
「それはこっちの台詞だぜ。公爵の兵士に化けていた奴の仲間だろう? なんだってこの娘を狙う?」
誰何する声に男が逆に問い返せば、少女はしばらく考えるように目を細めた後、こちらに身体を向けたままゆっくりと後退し始めた。
「これ以上、死にぞこないのその女にもこの国にも関わる必要はない。貴様のような奴とわざわざここで戦う意味もない。提案通り、ここは退いておくとしよう」
「へっ、話が分かるお嬢さんで助かるぜ。じゃあ――とっとと消えろ」
「――ふん」
足元から魔力を放出し、その反動で推進力を上げているのだろう。
少女はこちらに身体を向けたまま、信じられない速さで男から距離を取っていく。そして後ろにも目があるかのような正確な動きで障害物を避け、あっと言う間に男の視界から外れてしまった。
「……ふぅ、驚いた。あんな強そうな童女は初めて見たぜ。戦わずに済んで、よかったよかった」
緊張を解いてわざとらしく額の汗を拭うと、男は気の抜けるような声を出す。そうしてから、傍で横たわる娘へと目を向けた。
「どういった娘っ子かは気になるが、このまま放置するわけにもいかねぇしな。とりあえず……場所を移すか」
お待たせいたしました。
本日より第四章の投稿を開始していきます。
よろしければ、お付き合いください。