第十話 彼女と少年
完全に『翼狼』がこと切れたことを確認すると、メルクはすぐさまガナンに駆け寄った。
「ガナンっ!」
身体の至る所から出血し、右腕の骨も歪な方向へと曲がっている。何とも酷い有様だが、辛うじて上下する胸だけが、ガナンが生きていることを教えてくれていた。
「おい、ガナンっ! しっかりしろっ!」
耳元で呼びかけ肩を数回叩けば、弱弱しいゆっくりとした動きでガナンの瞼が持ち上がった。
「な、なんだメルクか……どうしたんだ、よ。そんなにこ、怖い顔して……」
「おい、私がわかるのか? 自分がどうしてこんなことになってるかわかるか?」
「え? あ……お、大きな犬だ。は、羽が生えた犬に……痛い……痛いよ、メルクぅ」
ガナンが情けない声で、目に涙を浮かべながらメルクへと左手を伸ばしてくる。
まずは生きていることに安堵しながらも、強がりなエルフの少年が浮かべる泣き顔に困惑してしまった。ガナンのことだから、痛くても我慢するんじゃないかと思っていたのだ。
「痛むのか?」
思わず伸ばされた手を掴んでやれば、少しだけほっとするような表情を浮かべた。安心したのだろうか。
「メルク……俺の右手が、動かない……動かないんだよぉ」
「……ああ。待ってろ、治癒術師がすぐに来てくれるから。そしたらすぐに良くなるさ」
完全に折れてしまっているガナンの右腕を見ないようにそう言うと、突然ガナンは何かを悟ったような色を瞳に浮かべた。
「ああ――メルク、俺……」
「うん?」
そして何事かを言いかけて、けれど小さく首を横に振ってその言葉を飲み込む。その言葉の続きが気になったのは一瞬だった。
すぐにメルクはガナンが言いかけた言葉よりも、ガナンが首を振ったことで露になった首筋の大きな傷口に目を向けてしまった。
「酷い出血だな……そうだ、ちょっと待ってろ」
「……え?」
握っていたガナンの手を離し、メルクは打ち捨てられていた頭陀袋から『血止め薬』を取って戻る。
「め、メルク、そ、傍にいてくれよ」
「ああ。それよりもこれを使ってみよう。これは私が昨日作った『血止め薬』だ」
「『血止め薬』? メルクが、つ、作ったのか?」
感心するような目になったガナン。その表情にこんな時にも関わらず功名心をくすぐられたメルクは、それを誤魔化すためにも薬を手に取る。そしてガナンの身体へ塗布していく。
ガナンは小さな笑みを浮かべながら、『血止め薬』を真剣に出血箇所へ塗りたくるメルクを見上げていた。
「何かおかしいか?」
「い、いや……ふふふ」
首に塗り、手足に塗り、脇腹やこめかみにも手製の『血止め薬』を塗り込む。
さすがは師匠であるルゾーウルムが指南しただけはあって、その薬の効果は覿面だった。ガナンの身体から溢れていた血はほとんど止まってしまう。
「悪いな。いっぱい作ったけど、もう無くなってしまった……ったく、血を流しすぎだぞ、お前」
「へ、へへ。けど、メルクは凄いなぁ。痛みは引いたし、随分楽になったよ」
「そ、そうか?」
たしか作った『血止め薬』に鎮痛作用はなかったはずだが、塗られた本人がそう言うのだからそうなのだろう。
心なしか表情も柔らかいものになり、顔色もすっきりしたように思う。
「……すげぇよな。メルクは本当にすげぇよ」
「な、何だよ急に。お前の手放しの称賛は、嬉しさよりも不信感がまず湧くな」
「俺、さぁ。実は分かってたんだよ。お前には何一つ勝てないってこと」
「……」
「頭も剣も、かけっこも才能も……お前には何にも勝てなかった」
「……おい、治癒術師が来るまでもう黙ってろ」
「――努力だって、結局お前には勝てなかったよ」
大怪我をしているにもかかわらず饒舌になったガナンに、メルクは少し危ういものを感じて口を慎むように言う。
けれど、ガナンは聞いているのかいないのかよく分からない視線を、上空へと向けるのみだった。
「ヤな奴なのに……傍にいたって無性に虚しくなって悲しくなるだけなのにな……すげぇーよお前は。なんでこんなに……俺はお前のことが好きなんだろう?」
「……知らん」
「あ、ははっ。だよなぁ? 俺だって分かんねぇーのに。お前に分かるかってな……なぁ、メルク」
「なんだ?」
「好きだ」
真っ直ぐな視線が、真正面から真面にメルクの心へと斬り込んでくる。それに対し、メルクは答えに窮して少し黙った。
本心を言うのは簡単だ。
ガナンのことはそれなりに気に入っているが、異性として好きだと思ったことはない。そもそもメルクにとって、ガナンは同性だ。無論、同性としてもそういった感情を抱いたこともない。
けれど、大怪我をしているこの少年に素直にそれを伝えていいのだろうか?
それは少年を気落ちさせ、精神的なものから来る怪我の悪化を招かないだろうか。
ならば誤魔化すべきか?
適当に言葉を濁し、少年の告白をなかったことにすべきか?
いや、そんなことはできない。真っ向から真摯な気持ちをぶつけてきた少年に対し、誰がそんな不誠実なことをできると言うのか。少なくとも、メルクにはそんな真似はできなかった。
「……ははっ、なんだよ、その顔」
「え?」
「冗談に決まってんだろ、う? バーカ」
「……お前なぁっ!」
ガナンのその一言に、メルクは本心を含んだ怒鳴り声を上げる。
ガナンがこちらに気を遣ってそう言ってくれたのは分かる。しかし許せなかったのだ。
この少年が覚悟を以てこちらに告白してきたにもかかわらず、それを茶化してしまったこと。告白をなかったことにしてしまったこと。
なによりも自分が――メルクが少年にその行為をさせてしまったことが、許せなかった。
「おーいっ! 無事かっ!」
さらに言い募ろうとしたメルクの耳に、聞き覚えの声が届く。
エルフの里で治癒術師をしているレゾンと言う男が来たのである。
「レゾン先生っ!」
「おお、メルクっ! ガナンの容態はどうだ?」
「出血がひどいです。すぐに見てやってください」
メルクが立ち上がり、レゾンのためにガナンの傍を離れる。
「ふむ、『血止め薬』が塗られているな」
「……塗ってはいけませんでしたか?」
ガナンの傍らに跪いたレゾンは、少し身体を観察してからメルクの塗った『血止め薬』に言及する。余計な真似だったのだろうか?
「いや、地面に流れているこの出血量を見るに、逆に塗らなくてはいけなかっただろう。出血も止まっているし、よほど質のいい薬だったんだろうなぁ……メルク、ガナンの服を脱がすから遠くへ行っていなさい」
「……はい」
自分が塗った『血止め薬』が悪化させていたらどうしようかと思っていたが、どうやらその心配はなさそうだ。
メルクを見ずに険しい顔で手を振ったレゾンに従い、メルクはその場から移動する。別に男の裸など前世でいくらでも見慣れたものだが、それを言って治療の開始が遅れては本末転倒だ。
「メルク」
レゾンの言う通りに遠くへ行こうとしたメルクの耳に、不思議と囁きのようなガナンの声が届いた。
その声に振り向けば、ガナンは先ほどまでの苦しそうな表情が嘘のように、くしゃくしゃな笑顔でこちらを見ていた。
「メルク――ありがとう」
その嬉しそうな表情に、安堵するような声に、どうやらもう心配はなさそうであることをメルクは悟った。
なんせこうやって、『血止め薬』に対するお礼まで言える余裕があるのだから。
「ふん、どういたしまして」
だからメルクも少し笑い、ほっとしながらそう言ってその場を後にした。後は治癒術師として優れた腕を持つレゾンに任せておけば間違いはないはずだ。
少し離れた場所にいた、狩人と一緒にレゾンを呼んでくれたローと合流してガナンの無事を伝える。するとローはとても喜んでくれた。ローが急いでくれたからこそ、ガナンが生きている間にレゾンがここまで辿り着けたのだ。
そしてさらに言えば、おそらくメルクの作った薬がガナンをここまで永らえさせたのだ。
(ガナンは助かる。私の『血止め薬』が、ガナンの命を救ったんだっ!)
前世で飽きるほど何かを殺して来た自分が、自分の作った薬で誰かを生かすことができた。メルクはその事実が何よりも嬉しかった。
それから数分後にレゾンが二人のもとへやってきて、そうして――。
だがそうして、少年の死を静かに告げたのだった。




