第五十五話 ルードヴィッヒ、読み切る!
帝都ルナティア、新月地区の外れに、小さな酒場が建っていた。
新月地区に施された税の優遇に伴い、そこで店を始めた男、それは、ルードヴィッヒと同門の、ガルヴの弟子であった。
ルードヴィッヒの協力要請を受けた彼は、この酒場で、民草の声を拾う役割を担っていた。と同時に、ここは、ルードヴィッヒの仲間たちが集う、隠れ家的な役割も担っているのだ。
その日、ルードヴィッヒは、一人で店にやって来た。店の中には、すでに待ち合わせの人物、バルタザルと、後輩ジルベールが待っていた。
「すまない。待たせたな。ちょうど、姫殿下からのご連絡があってな」
酒を注文し、席に座る。と、早速、バルタザルが興味深げに聞いてきた。
「タイミングが良かったな。で、ミーア姫殿下はなんと?」
「ああ、そうだな。概ね想像通りといったところだが……やはり、あの小説を用いて、人々の不安を軽減しようとお考えらしい」
ルードヴィッヒは、自らの手紙と共に送られていった、エリスの原稿を思い出す。この時期に、一巻の原稿が完成し、後は本にするだけ、というのは、やはり計算されたタイミングだったのだろう。
「例のお抱え作家のか……」
バルタザルは、顎髭を撫でながらつぶやく。
「販路は、フォークロード、コーンローグの両名に協力してもらえばいい。フォークロードは、本も取り扱っていたはずだから、製本の知恵も借りられるかもしれない。あとは、本の内容次第だが……」
チラリ、と視線を向けてくるバルタザルに、ルードヴィッヒは肩をすくめる。
「正直、物語の良し悪しについては、俺が論じることではないと思うが、少し読んだ限りでは……そうだな。斬新な話だった。個人的には、かなり面白いのではないかと思う」
娯楽を目的とした本を、ほとんど読まないルードヴィッヒではあったが、そんな彼の目から見ても、その原稿はよくできていた。
ミーアの狙いを実現するために、不足はないようにも思えた。
「なるほどな。それはなによりだ」
バルタザルは腕組みしてから、酒を一口。美味い酒だったのか、その口もとに笑みが浮かぶ。
「しかし、今回のミーア姫殿下の行動は、お前の予想通りだったな。お前もだいぶ、帝国の叡智のなさりようを理解できるようになってきたんじゃないか?」
その言葉には、けれど、ルードヴィッヒは苦笑する以外にない。なぜなら……。
「言うは易し、というものだろうな……、それは。俺が気付いたのは、つい先日のこと、それも、ミーアさまがご準備されたヒントを見てようやく辿り着けたわけだが……、ミーアさまが、エリス嬢をお抱え作家に迎えたのは、セントノエルにご入学される前のことだ」
そう、それこそが恐るべきことだった。
もしも、すべてが計算の内であるとするなら、ミーアはずっと以前から今日のような状況が訪れることを、読んでいたことになるからだ。
――ベルさまが未来の情報をもたらしたから、というわけでもない。彼女が来たのは、ミーアさまがセントノエルに入学された二年目のこと。エリス嬢のことは、それより前になる。
「もし、それが本当なら……恐ろしいことだぞ。ミーア姫殿下は、五年以上前から今の状況を予想していた、ということなのか?」
今の民の状況に対する備えを、五年以上前からしていた……はたして、そんなことがあり得るのか……。
思わず、考え込むルードヴィッヒである。
「確かに、食料が不足すれば、人々は不安になる。確かに考えればわかることっすけど……そんな昔から備えをするとか、できるんっすか?」
ゴクリ、と喉を鳴らすのは、ジルベール・ブーケだった。
青月省に所属する彼は、最近ではサフィアスに協力して、中央貴族の反ミーア派への抑えを担当していた。ノリは軽いが、その実、堅実な仕事をする男であり、よく頭も働く。けれど、そんな彼をして、ミーアの知恵働きは常軌を逸しているように見えたのだろう。
「まさに、人智を超えた知恵、恐ろしい叡智だな……」
バルタザルもまた、その顔に畏怖の念が見られた。
そんな二人の様子を、ルードヴィッヒは、どこか微笑ましいもののように感じていた。
――なるほど、ミーアさまと出逢ったばかりの頃の俺は、こんな感じだったのかもしれないな……。
ルードヴィッヒは、そっと酒を口に含んでから、
「そう……恐ろしい叡智かもしれない。が……もっと簡単なこと、恐れる必要のないことかもしれないがな」
「というと?」
眉を潜めるバルタザルに、ルードヴィッヒは表情を和らげて、
「大したことじゃない。ミーアさまは未来を完璧に予想したわけではなく、ただ単に、なにかあった時のために、いろいろと備えをしておられた、ということもあり得るだろう」
その言に、ジルベールが納得の頷きを見せる。
「なるほど。どんなことが起こってもいいように、手駒を揃えていたってことっすか?」
身も蓋もない問いかけに頷いてから、ルードヴィッヒは、眼鏡をクイッと上げて……。
「もしくは、もっとシンプルかもしれない。ミーアさまは、人間というものを愛される方。その人間の持つ才能を惜しみ、なんとか生かそうとなさる方だ。それは、聖ミーア学園やセントノエル学園における振る舞いを見ていれば察することができるだろう?」
「そうっすね。それは、ガルヴ師匠の方針とも重なるっす」
頷くジルベールに、ルードヴィッヒは続ける。
「であれば、おのずと見えてくるだろう? ミーア姫殿下のお考えが……」
バルタザルは、納得の頷きをみせながら、
「なるほど。師匠と同じお考えとすると……エリス嬢に関してもそういうことか。ミーア姫殿下は、エリス嬢の才能を見出し、それが生かされずに枯れるのはもったいないと思われた、と?」
「使える手駒を揃えたわけではなく、才能を伸ばすためにお抱えとし、その結果、自らを助ける人材に成長した、とそういうことっすか?」
二人に頷いて、ルードヴィッヒが言う。
「計算高い智者は、その知恵の及ばぬ状況に陥った時、無力だ。けれど、慈悲深き人格者は、己がかけた情けゆえに、周囲から助力を受ける。人が有限で、その能力に限界があると考えるなら、おのずとどちらが優れているかの答えは出るはずだ」
それから、彼は静かに眼鏡の位置を直し、
「いずれにせよ、我らが成すべきことは変わりはないだろうがな。計算高い智者にしろ、慈悲深き人格者にしろ、ミーア姫殿下が女帝になることが、帝国にとって最善だ」
そうして、三人は頷きあって、酒杯を高く掲げるのであった。