第九十七話 消失・幕間狂言
「さすがに、少し疲れましたわ」
夏休みも残すところあとわずかになったその日。
夜遅くに部屋に戻ってきたミーアは、ドレスのままベッドにポーンと横になった。
アンヌあたりに見つかれば怒られてしまいそうな格好だが、今ぐらいは大目に見てもらいたいミーアである。
ルドルフォン辺土伯と話をつけてからも、ミーアは精力的に帝国内を飛び回っていた。
麦のことに手ごたえを感じたミーアは、帝国にいる間にできる限りのことをと思い、貧民街に行って病院の視察をし、食料備蓄を確認し、それから学園都市設立のための各貴族へのあいさつ回りを敢行した。
「うー……」
ずーんっとのしかかってくる疲労感。それに耐えて、ミーアは何とか顔を上げる。
「そういえば、最近、確認してませんでしたわ……」
のそのそと起き上がり、ミーアが向かったのは豪奢な机の方だった。その引き出しの一番奥に、大切にしまい込んだもの。
それは血染めの日記帳……、ミーアの道しるべだった。
夏休みに入ってすぐに見たきりになっていた日記帳、それを手に取り、ミーアは疲れた笑みを浮かべる。
「……これで、全然変わらずにギロチンコースだったら、さすがにちょっとへこみますわね」
それから、ミーアはこわごわページをめくっていき……、問題のページに到達したとき、
「…………へっ!?」
思わず変な声が出てしまった。
問題の、ギロチンにかかった日のページ。そのページにある文字が、まるで糸がほどけるように、するする、と紙の中に溶けていき……。
同時に、ページを覆っていた赤いしみが見る間に消えていく。
もともとそんなもの、なかったかのように、真っ白なページが表れて、
「なっ、なんですの、これ、あっ」
思わず取り落としてしまった日記帳は、まるで月の光のような淡い輝きを放ちだし、次の瞬間、光の粒となって消えた。
「これ……は」
呆然と、その光景を眺めていたミーアは、一瞬、何が起きたのかわからずに、困惑の声をあげてしまう。
「どっ、どういう、ことですの? なぜ、日記帳が……」
ミーアは失われた日記帳を探しつつ、おろおろするばかり。
なにせ、あれはミーアの行動の指針だ。あれには、どうやって自分がギロチンにかけられるのかが書かれているのであって、あれがなければ、何をどうやってギロチンを回避すればいいのかがわからなくって……。
「……あら?」
と、そこでミーアは気が付いた。
そう、あの日記帳は未来のミーアが書き残した指針だ。
ギロチンにかけられるミーアがいる限り、あの日記帳はずっと存在し続けるわけで……。
「つまり、あの日記帳がある限り、わたくしはギロチンにかけられることが決まっていて……では、その日記帳が消えた、ということは……」
ぐるぐると、混乱に惑っていた思考が一つの流れを作り、やがてある結論に至る。
すなわち、
「……もしかして、ギロチンの未来も消えたと……、そういうことですの?」
呆然とした口調で、ミーアはつぶやいた。
「やっ……た、んですの? わたくし、ついにっ!」
次の瞬間、ミーアは高々と小さな握り拳を天に突き上げた。いささかおしとやかさに欠ける行動だったが、関係なかった。
くるりん、くるりん、と部屋の中を回りながら、ひとしきり喜びのダンスを踊ったミーアは、少しだけ落ち着いてから、
「そうですわ。アベル王子にお手紙、書きましょう!」
ぱん、と手を叩き、嬉しそうな笑みを浮かべた。
実際のところ、残りの夏休みの日数的には手紙が返ってくる可能性は低い。
学校が再開したら、直接、お話すればいいことかもしれない。
けれど、この嬉しい気持ちを、今すぐに誰かに知らせたくって……。
そして、一番に知らせたいのは、やっぱり……。
「アベル王子、お元気かしら? まぁ学校が始まれば、お会いできるでしょうけれど、今から待ち遠しいですわ」
そして、運命の歯車は、ゆっくりと動き出す。
同時刻、とある地下酒場にて。四人の男たちが、ひそひそと話をしていた。
「帝国は、どうやら持ち直してしまいそうだな」
「いろいろ貴族たちをたきつけてみましたが、難しそうですな」
「あの金月省の文官、ルードヴィッヒなる若者は、なかなかに優秀なようで……」
「飢饉の一つでも起きれば、と思っておりましたが、こうも完ぺきに体制を整えられては……」
「皇女ミーアとシオン王子殿下との関係も良好だと聞く。分断工作に失敗したと考えるべきだろうな」
「ふん、帝国の叡智か……。まったく忌々しいガキだ」
「仕方がないさ。聡明をもって知られるシオン王子殿下のみならず、ヴェールガのラフィーナ公爵令嬢あたりまで一目置く人物だ」
「いずれにせよ、我々がなすべきことは変わらん。帝国に対する計画はいったん凍結。標的を変える……」
……アベルからの手紙は、結局届かなかった。