第四十九話 合理性と眼鏡と
レアのもとに戻って来たミーアは、おもむろに小箱を開き、中身を取り出した。
「レアさん……これをあなたに渡しておきますわ」
そうして差し出した物……それは――眼鏡だった!
かつてミーアがクソメガネの力を借りるべく頼った、伝説の眼鏡。そうなのだ、ミーアが用意した秘策、それは、すなわち……。
――もう、最後の最後は、すがるしかありませんわ……。帝国最高の権威に!
すなわち、クソメガネの権威である! 眼鏡の威を借るミーアである!
眼鏡をかければ、頭もスッキリ良くなり、そのうえ、勇気も出てくる。堂々と演説できるに違いない、と確信しているミーアである。
数日前、その着想を得たミーアは、急ぎ、セントノエルの職人を頼った。
以前、ミーアの伊達眼鏡を作った職人に、である。
「せっかくの晴れ舞台ですし、レアさんに合うサイズの眼鏡があるといいのではないかしら?」
度が入っていない眼鏡を作ることに難色を示す職人を、なんとか説き伏せ、ミーアは生徒会長選の投票日に間に合わせることに成功したのであった。
――ギリギリでしたけれど、間に合ってよかった。これで完璧ですわ。
これこそが、ミーアができる最後の一手。最も信頼のおける手なのだ。
「あ、あの、ミーア、さま……?」
唐突に眼鏡を手渡され、レアは困惑している様子だった。
このことに、なんの意味があるのかわからない、とばかりに首を傾げるレアに、ミーアは優しく、朗らかな顔で言った。
「大丈夫ですわ。レアさん。必ず、上手くいきますわ。さ、かけてかけて」
自信満々で頷くミーアに、押されるように、レアは眼鏡をかけ……くらぁっと体が傾きかける。
「大丈夫ですわ。レアさん。大丈夫。あなたはしっかりと物事を考えられる方ですから」
仮に原稿を読み飛ばしたって大丈夫だよぅ、っと……。緊張した様子のレアに、ミーアは生真面目な顔で言う。
「みんな、あなたの言葉を聞いておりますわ。どうか、それを信じて」
ギュッと手を握って言う。っと、レアはハッとした顔をする。
――ふむ、あとは念のための備えとして、選挙で負けても気落ちしないでね、と言っておきたいですわね。できるだけ、婉曲的に……。
ミーアは、少しだけ考えてから言った。
「神は見……」
えなくとも、きっと、あなたの努力を見ているから、仮に負けても大丈夫よ? ちゃんと、その努力は報われるはずだから、落ち込んでうっかり司教帝にならないでね……、などと言おうとして、さすがに、白々しいかと自重する。
そんなの、司教の娘ならば百も承知なこと。むしろ偉そうに言われたら、腹が立つだろう。
「あなたなら、やれますわ。頑張ってくださいませね」
ミーアは、ポンポン、っとレアの肩を叩く。っと、レアは、小さく頷き、それから、なにかを思い出したような顔をして……。
「ディオン・アライアよりマシ。ディオン・アライアよりマシ……」
呪文のように四度繰り返し……。
「あの、ミーアさま、このおまじないって、どういう意味があるんですか?」
「ん? ああ、実は、帝国にはディオン・アライアという、こわぁい騎士がおりまして。わたくしがサボろうとするとすごく怖いお顔をするのですけど……。彼の殺気に比べれば、こんなのどうということもない、という意味ですわ」
レアは、ポカンとした顔をしたが、その顔にすぐに理解の色が広がっていき……。
「ああ……そういうこと、なのですね」
小さく頷いた。
ミーアから、わけのわからない眼鏡を手渡されて、レアは首を傾げるばかりだった。
ぐにゃあ、っと歪んだ視界に、彼女はただただ、戸惑っていた。
――ど、どうして、こんな眼鏡を……? こんなのかけてたら、前が全然見えない……。
強い度の入ったその眼鏡なのだが……実は、ミーアが手配した伊達眼鏡ではない。
まぁ、言うまでもないことながら、それは、アンヌがぶつかった際に取り違えてしまった、ユリウスのスペアの眼鏡なのである。
緊張と混乱の最中にあるレア、その手が、ギュッと握られる感触がして……。
「みんな、あなたの言葉を聞いておりますわ。どうか、それを信じて」
ミーアの声に、レアは、思わずハッとする。
――この眼鏡……みんなの顔が見えなければ、緊張せずに話ができるだろう、ってことなのかな……。
見えていなくたって……みなが聞いていると信じて話をしろ、と……ミーアはそう言っているのだと、レアは思って……。
確かに、これは、とても合理的な選択だった。
観衆が見えているから怖い。ならば、見なければいい。
目を閉じていれば、彼らの視線を感じなければ、意識しなければ……緊張することもないだろう。ただ、演説を彼らに聞かせればいいだけなら、原稿に目を落とし、顔を上げなければいい。
それでは見栄えが悪いなら、こうして、度が合っていない眼鏡をかければいい。そうすれば……緊張せずに済むだろう、と。
それは、とても理に適った考え方。レアが理解しやすい考え方で……だけど……。
――でも、それって……なんだか、嫌だ……。
そう、思ってしまう。
だって、それって結局は、逃げに過ぎないじゃないか、と。
怖いものから目を逸らして、見えないふりをして……ただ虚空に向かって声を上げろと言われているようだった。生徒たちの顔を見る勇気がないのだから、顔を上げるな、逃げろ、と言われているようだったから。
――あんなに、信じてくれるって、言ってたのに……。
結局は口ばかり……ミーアもまた、自分を信じていないのだと、思ったから……。
だけど……。
「神は見……」
ミーアのつぶやく言葉が、聞こえてきた。
レアの、最も親しみのある単語が、聞こえてきたから……。レアは、再び、ミーアの声に耳を傾ける。
けれど、ミーアは言葉を途中で止め、すぐに別のことを言った。
「あなたならやれますわ。頑張ってくださいませね」
――今、なにを……?
ボヤけたレンズの向こう側、ミーアがどんな顔をしているのか見えない。
それ以上、言葉が続くこともない。
だから、レアは自分で考えることにする。
ミーアは言った。あなたは考えられる人だから、と。あの言葉は、きちんと自分で考えろということだと、レアは理解する。
そうだ。考えなければならない。なぜなら、理性と論理によって、きちんと考えるように、自分は作られているのだから……。
――神は見、という言葉……。この眼鏡……目の前が見えない……。ということは「神は見……えない、と続けようとした?
瞬間、レアの脳裏に、稲妻が走った!
――神は見えないけれど、私たちの祈りを聞いている。私は、それを信じている。ミーアさまが指摘しようとしたのは、これ?
そして、ミーアは言った。みんなが聞いていると信じろと、と。見えなくとも、信じろ、と。
それは、どちらも同じことだ。
見えないけれど、確かに聞いていると信じること……。
ただ、違いは、聞いている存在が人か神かの違いで……。
――ああ、そうか。そういうこと?
まるで、問われているようだった。
あなたは、神の前に出る時には緊張しないのに、人の前に出る時には、緊張するのか? と。
それは、理屈に合わないのではないか? と。
なぜなら、神は人より、畏怖されるべきものなのだから。
「……あの、このおまじないってなんの意味があるのですか?」
例のおまじないのことを聞いてみる。誰かの名前を、何度もつぶやくことに何の意味があるのか? と。
実は、その意味は、なんとなくわかってはいたけど……念のために聞いてみる。
「ああ、実は帝国にはディオン・アライアという怖い騎士がおりまして……」
冗談めかしてミーアが言ったのは、レアの推測の正しさを裏付けるかのようなものだった。
――ディオン・アライアよりマシ……。ああ、やっぱり……ミーアさまは、すごく合理的な方なんだ。
ミーアは言っているのだ。それは比較の問題だ、と。
ディオン・アライアという恐ろしい男に睨まれるより、今の状況はマシ、ということ。
全知全能の神と比べれば、人を前にすることのほうがマシ、ということ。
緊張などするはずがないではないか、ということ。
――ミーアさまは、私を信じて……、緊張することなんかないって、少し考えればわかるって、そう言ってくださっているんだ。
先ほどの、ミーアの応援演説が今もレアの耳に残っている。
「信じる」と言ってくれた……その言葉を胸に抱き、レアは静かに壇上に向かい……。
視界がボヤけていることをすっかり忘れて、思わず転びかけた。
ちょっぴりアンヌめいたところのあるレアであった。