第四十六話 頭がスッキリ、思考がクリアにな……った気になるアレ
同日、午後。
アンヌは一人、セントノエル島の商店街にやってきていた。
彼女が急ぎ足で向かった先は、裏通りに建つ小さな商店だった。
明るく華やかな表通りとは打って変わり、裏通りは薄暗く、汚れていて、治安がいいとはとても言えないような場所――などということは、このセントノエルに限ってはもちろんなく……。
そこに広がるのは、歴史を感じさせる工房が建ち並ぶ風景だった。そう、そこは島で暮らす人々の家具や、雑貨の修理を請け負う職人街なのだ。
顔なじみの職人たちと笑顔で挨拶を交わしてから、アンヌは、奥の店に入る。
雑多に物が溢れた店内、店の奥のカウンターで、一人の男が顔を上げる。
「ああ……来たか。お嬢ちゃん」
そこにいたのは老齢の男だった。年老いた男は、眼鏡を光らせながら、アンヌのほうに目を向ける。眼光鋭い男に臆することなく、アンヌは真剣な顔で頭を下げる。
「おはようございます……。今回は、ご無理を言ってしまい申し訳ありません。それで、あの、例の物は……?」
「できてるよ。ギリギリだったがね……」
肩をすくめつつ、男が差し出したのは、手のひらサイズの木の箱だった。差し出されたそれを捧げ持つように受け取って、アンヌが小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
中身を確認したアンヌは満足そうに笑みを浮かべた。
「完璧なお仕事ですね。さすがです」
その言葉に、男は、かすかに苦々しい表情を浮かべて、
「そんなものは、ワシからしたら邪道……なんだがね。まったく、そんなものを使って、なにがしたいのやら……」
「使うと緊張が忘れられる、とミーアさまは言っておられました。頭がスッキリして、思考がクリアになる、と」
アンヌは、その木箱をグッと握ってから、もう一度、男に頭を下げた。
「それでは、急ぎますから。私はこれで……」
「ああ、気を付けて帰りなさい。落とさないようにね」
アンヌはこくり、と小さく頷いて、小走りに店を出た。
急がなければならない。
選挙の最終演説までは、もうあまり時間がないのだから。
裏通りから、表通りへ。行きの道順を逆に辿るようにして進む。
近道などは考えない。変に道を変えて迷ったら元も子もない。
全力で走りたくなる気持ちも抑える。全速力で走ったら、学園にたどり着く前に息が上がってしまう。そうしたら、結果的に遅くなってしまう。
「焦らず、急ごう。大丈夫、ちゃんと間に合うから」
小さな声で自分を鼓舞しつつも、アンヌは道を急いだ。
「それにしても……これで一体どうするつもりなんだろう?」
手の中の木の箱を見て、うーん、っと唸るアンヌ。
「前も、ミーアさまは同じようなものを買っていたけど……どうして余分にもう一つ必要なんだろう?」
首を傾げつつも校門をくぐる。学園の敷地に入り、聖堂が見えてきたところで、アンヌは思わず、ホッと安堵の息を吐く。
「ともかく、間に合って良かった……」
と足を速めた、次の瞬間だった!
「きゃっ!」
「うわっ!」
突然、角から現れた人物に激突。その衝撃で、アンヌは尻餅をついてしまう。
そして、その手から、ひょーいっと例の木の箱が飛んでいき……。
「あ、いたたた……」
お尻をさすりつつ、ぶつかってしまった人のほうに目を向ける。っと、そこに倒れていたのは……。
「あ、ユリウス先生……も、申し訳ありません」
慌てて頭を下げると、ユリウスは、苦笑いを浮かべて立ち上がった。
「いえいえ、こちらのほうこそよそ見をしていました。お嬢さんにぶつかられて、転んでしまうとは、我ながら情けない」
頬をかきつつ、バツの悪そうな様子で、彼は優しく手を差し出した。
「大丈夫ですか? アンヌさん」
遠慮がちにその手をとって立ち上がるアンヌ。見れば、ユリウスの物だろうか、足元には、彼の荷物だろうか、大量に本が散乱していた。
「大変……ごめんなさい」
急いで拾い集めようとするアンヌをユリウスが止める。
「ああ、大丈夫ですから。それより、お急ぎの様子でしたけれど、大丈夫ですか?」
言われて、すぐに思い出す。そうだった!
「ここは、大丈夫ですから。行ってください」
その言葉に、アンヌは躊躇いがちに頷いて、
「あ、はい。すみません。それじゃあ……」
そこでようやく、アンヌは持っていた木の箱をどこかに落としたことに気が付いた。けれど幸い、すぐに見つける。それは、ユリウスの足元に転がっていた。
急いで拾いあげてから、もう一度、頭を下げて、アンヌは聖堂に向かい走り出した。
走りながら、箱の中身を確認。どうやら、無事なようで、思わず安堵の息を吐くアンヌであった。
さて、そんなアンヌを見送ってから、ユリウスは落ちていた自分の本を拾い集めていく。今日は、子どもたちに周辺国の歴史を教える予定だった。
「生徒会長選挙も絡めて、何か話ができればいいんだが……」
ぶつぶつつぶやきつつ、本を拾いあげ……、あたりをキョロキョロ……。
「ああ、こんなところにまで飛ばされてたか」
彼はおもむろに、少し離れた草むらの中、小さな木箱に手を伸ばした。
中を開け、中身の無事を確認してから、彼は特別初等部の教室へと向かった。