第四十三話 甘い物を食べると、嬉しい
「どういう、意味かしら?」
瞳を瞬かせるミーア、レアは、ヨーグルトの容器を手に取って続ける。
「私……嬉しかったんです。誰かに、こんなに必要とされたのは初めてでしたから。ミーアさまはああ言ってくれたけど、頑張るのは全然大変じゃなかった。楽しかったんです。でも……ずっと思ってたんです。本当に、このまま生徒会長選挙に出ていいのか、って迷いがありました。それと、罪悪感も……」
「ざ、罪悪感、ですの……?」
若干、引いた顔をするミーアにレアは静かに頷いて、
「父の考えは、兄が生徒会長選挙に出て、ミーア姫殿下と戦うことにありました。それを無視して私が生徒会長選挙に出ていいのか……まして、兄に勝って私が生徒会長になるだなんて、そんなの許されるのかな、って……ずっと思ってました」
レアは、そっと胸に手を当てて、目を閉じる。
「それに、楽しむこと自体にも、罪悪感があって……」
「たっ、楽しむこと、自体に……?」
「ずっとずっと幼い頃から、遊んでいる時によく思っていました。こんなふうに遊んでいていいんだろうかって。遊んでいるこの時間に、もっと……できることがあるんじゃないかって」
それから、レアは、ヨーグルトを乗せたスプーンを口に運び……。
「このデザート、とっても美味しいですね……」
なぜだろう、美味しいと言っているのに、その顔に見えたのは、かすかな苦悶の表情だった。
「とても美味しい……。ミーアさまは、罪悪感がありませんか? こういう美味しい物をお食べになると……」
「ふむ……」
ミーアの脳裏に、ふと、タチアナの顔が浮かんだ。それから、ミーアは二の腕をFNYっとして己が罪悪感を刺激してみた。
「ふむ、まぁ、感じないことはないですわね……」
むしろ、危機感のほうが刺激されたような気がしたが、それはともかく……。
「こういう美味しい物を食べる時にも、そうなんです。いつも罪悪感を覚えていました。これを誰かに……それこそ、孤児院の子どもたちに食べさせてあげるべきなんじゃないかって……」
「ええと、それはあなたのお父上……ルシーナ司教の教えによるものかしら?」
禁欲的に過ぎるその考え方は、いかにも噂に聞くルシーナ司教っぽいと思ったのだが……。
「いいえ。確かに父は礼儀作法や神への儀式への向き合い方には厳しいですが、それ以外のことは、そこまでではありません。食事も好きな物を食べさせてくれましたし、兄と二人で遊んでいても咎められることはありませんでした。だから、これは、あくまでも私の考え方です」
レアは真っすぐにミーアを見つめて言った。
「でも、先ほど、ミーアさまはおっしゃられました。楽しめ、と。楽しむことは大切なんだ、と。なぜ、あんなふうに考えられるのですか?」
「なぜって……」
咄嗟には答えられない質問。されど、ミーアは、レアの言葉の中にある危険なニオイを嗅ぎ取っていた。すなわち……。
――これ……このままレアさんが生徒会長になったら、ものすごーく禁欲的なセントノエルになってしまいそうな感じがいたしますわ。もしかすると、せっかく、わたくしが頑張って充実させた学食のスイーツも削減されてしまうかも?
セントノエルでの学校生活はあと二年あるのだ。その間、甘味が不足するようなことはできるだけ避けたい。
――これは、少々、慎重に答える必要がありますわ。どう、答えたものか……。
考えつつもミーアは、デザートとともに、アンヌが淹れてくれたホットミルクwithハチミツを飲む。
じんわりと、舌の上に広がる濃厚な風味、かすかに酸味を含んだハチミツの、トロリとした甘みに身を委ねつつ、ミーアは考え……考えて。
――いや、でも、楽しむ理由とか聞かれても……困りますわ。
早々に諦めそうになる。なぜなら、
――楽しいものは楽しいし、美味しいものを食べると嬉しい。甘い物を食べると笑顔になるし、みんなでキノコ鍋を食べると幸せになる。それは自然なこと、仕方のないことで、それを否定されても困りますわ。だって……。
「……わたくしは、そうできているのだから」
無意識にミーアがつぶやいた言葉……それを聞いた瞬間、レアがハッとした顔をした。
「そう……できている……?」
衝撃を受けた様子のレアに、ミーアはさらに慌てる。
――ああ! まずいですわ。これでは、わたくしが美味しい物を欲し、楽しいことを欲する、強欲姫として生きている、と言っているように聞こえてしまいますわ。ここは……もう少し対象を広げて……。
できるだけ生真面目に、深めの含蓄を語る哲学者っぽい顔を作って、ミーアは答える。
「そうですわ。人間……というのは、そのようにできているのですわ」
対象を「自分」から「人間」に広げ、一般論的な話に落とさんとするミーア。であったが、その言葉に、レアはさらに衝撃を受けた様子だった。
「人間は、そのようにできている……。つまり、神が人間をそのように造られた、と、ミーアさまは、そのようにおっしゃられるのですか?」
レアからの問い。ミーアは、先ほど平らげたデザート分を燃焼させて頭をぎゅんぎゅん動かす。
――神が人を造った、というのは中央正教会の教えの基礎。そして、人間がそのようにできている……というなら、神がそのように造ったということになりますわね。別に矛盾はございませんわ。
確認してから、ゆっくりと、ミーアは頷いてみせる。
「そういうこと、になるのではないかしら?」
「神は間違いを犯さない。であれば、人間がそのようにできていることも、間違いではない、と……?」
「無論、美味しい物を独り占めしようというのは、罪でしょうけれど。それは独り占めをすることが罪なのであって、美味しい物を美味しいと喜ぶこと自体は罪ではない、と思いますけれど」
みなで揃い、美味しい物を食べることが悪のはずがない! と力を込めて主張する。
学食で、みんなでワイワイスイーツを食べることが悪なはずがない! と全力で主張する!
「楽しむことも、悪ではない?」
「そう思いますわ。まぁ、楽しいことばかり求めるようでは、怠惰になりますけれど……」
ちょっぴり脳裏に、どこかの孫娘の顔を思い浮かべつつも……自分自身のことは一切思い浮かべずに……ミーアは続ける。
「あなただとて、あの特別初等部の子どもたちが楽しそうにしているのを、悪だとは思わないでしょう?」
その指摘に、レアは再び目を見開いた。
「そう……ですね。確かに、私には、あの光景はとても好ましいものに見えました。人には、楽しむことが必要……そこに罪悪感を覚える必要はない……? 人間は、そのようにできているから……」
そうつぶやいてから、レアは……ああ、と……天を仰いだ。
「では……私が父の思惑に疑問を感じ、考えることも罪ではないと、そういうことに、なるのでしょうか? それは、私がそう造られているから……疑問を持ち、それを思考するように造られているからで。私が、生徒会長になりたい、と願うことも、ミーア姫殿下の期待に答えたいって思うことも、間違いではない……?」
「そのとおりですわ……私は、レアさんが頑張ることが間違いだとは、思いませんわ。たとえ結果が、FNY……ええと、好ましいものではなかったとしても……」
ミーアの脳内翻訳機が、ギュンギュン唸りを上げる。
そう、ミーアは自らの心情を、レア向けに翻訳しているのだ。すなわち、
「わたくしは、食べ物を美味しくいただくことが、間違いだとは決して思いませんわ。たとえ、その結果、多少、FNYったとしても、それはそれで……」
そんな、心の内にある固い信念を、レア向けに翻訳したのだ。
さらに、そのうえで、
「ですから、わたくしは、レアさんを応援いたしますわ。レアさんが頑張りたい、生徒会長をしたいと思ってくださるならば、全力で応援いたしますわ」
ミーアは、そう決めていた。レアを応援しよう、と。
なぜならば、美食にすら罪悪感を覚えるという、レアの禁欲的な側面を、双子の兄であるリオネルが持っていないという確証がないからだ。
――とりあえず、美食に対して一定の理解をしてくれたレアさんになっていただかないと、学食の甘味が一掃されてしまうかも……。リオネルさんも特別初等部の子どもたちを見に来ていたと聞きますし、それこそ、子どもの体に良いお野菜ばかりの学食に、とか言い出されたら大変ですわ!
野菜は野菜で、まぁ、嫌いではないが、そればかりは、ちょっと……なミーアである。
そんなわけで……。
「頑張りますわよ! レアさん」
そんなミーアの声に、レアは力強く頷くのであった。