第三十六話 ミーアはそっと自らのこめかみに触れ……
「レアさん、大丈夫、大丈夫ですわ」
どうどう、っと、手を動かしつつ、ミーアは、課題を素早く整理するために、目の前に用意されていたお茶菓子に手を伸ばす……お菓子を食べるために、考えて、カロリー消費をしようとしたわけではない。念のため。
ミーアが手を伸ばした先には、大きなお皿が置かれていた。それは、ミーアとレアの真剣なやり取りに気を使ってか、アンヌがこっそり用意してくれたものだが……バッチリ視界の外れで、捉えていたミーアである。
ちなみに、今日のオヤツは薄いクッキーに、バターと甘い豆のペーストがのったものだった。
サクリ、ホロホロリと口の中に溶けるクッキー生地、その味は仄かに塩気を感じるもの。そこに、濃厚な甘味を持った豆ペーストのトロリとした舌触りと、サラリと舌の上で溶けるバターのコクのある味が合わさり、実に味わい深いものとなっている。
――これは……ただのクッキーより数段上のお味……実に素晴らしいですわ。うんうん。
その極上の味は、ミーアの頭を覚醒させ、クリアにし、伝えるべきことを明確にしていく。
――問題は、レアさんが、選挙演説を難しく考え過ぎていること……かしら。もしかして、レアさん、絶対に間違えないように、とか、考えていたりしないかしら?
ミーアは経験上、知っている。
そちらに向かって行っては駄目だ駄目だ、と思うほど、そちらに向かって行ってしまう法則があるのだ。馬に乗っている時など、特にそうだ。そっちに行くと泥が跳ねて服が汚れちゃうなぁ、嫌だなぁ、嫌だなぁ、と思っていると、大抵、馬がそちらに向かって行って泥の中に突っ込む羽目に陥る。
ちなみに、その傾向は、荒嵐に乗っている時に、より顕著に表れるのだが、まぁ、それは些細なことである。
ともかく、ミーアは思うのだ。
――間違えたらダメだと思えば思うほど、間違えてしまうものなのですわ。であれば、むしろその逆。間違えたっていい、と思わせることが大事ですわね。
ミーアは腕組みし、偉そうな顔でレアに言ってやる。
「間違えたって、やり直しができますわ」
そのぐらいの気持ちでいたほうが、むしろ間違えずに済むのだ。にもかかわらず、深刻に考えすぎるから、ドツボにはまってしまうのだ。
……そもそも、そんな必要はまったくないのだ。だって、ここはセントノエルで、今は平時なのだから。
目の前の人々が、一切話を聞かずに暴徒化することもなければ、腐った卵を投げつけられることもないではないか。
一言でも言い間違おうものなら……というか、そもそも、言葉を間違えなくたって、殺気立ち剣を振り上げる連中を相手にすることに比べれば、なんと平和なことだろうか?
仮に言い間違えても、笑ってくれるのだ。
ミーアは、数多、自身が行ってきた演説を思い起こし……つくづく思う。
「相手が話を聞いてくれるということを、感謝するべきですわ」
心から、思う。
言葉が通じるとは、なんと幸せなことだろうか?
話せば、とりあえず耳を傾けてくれるというのは、実に幸せなことではないか、と。
それから、ミーアは、柔らかな笑みを浮かべる。
「大丈夫ですわ。間違えたって、言い直せばいいだけのことですもの。伝わるように誠実に、もう一度、話せばいいだけですわ」
あくまでも、選挙演説なんか、簡単ですよ、と。間違えたってなんともないですよー、と強調しておく。だから、絶対に間違えないように、とか難しく考えなくってもいいよー、と。
「みんな、あなたの言葉を聞きたいのですから、たっぷり時間をかけて大丈夫。落ち着くまで待って話し出せばよろしいのですわ」
「私の言葉を、聞きたい……?」
不思議そうに目を瞬かせるレアに、ミーアは重々しく頷く。
それから、軽くこめかみのあたりを指で触れ、いささか偉そうな顔をして……。
「いいですこと? レアさん。そもそも、誰も話を聞いていないなら、言い間違えてもなんともありませんでしょう?」
「それは、まぁ……」
何を言いたいのか、と首を傾げるレアに、ミーアは堂々と言う。
「そして、誰かが注目している、あなたの話を聞きたがっているのなら、多少は言い間違えたところで問題ないはずですわ」
その指摘を聞いて、レアは思わずといった様子で目を見開いた。
「な……なるほど。つまり、どちらにしても、多少の言い間違えは問題ない、と……」
それは、極めて合理的な話だった。
聞きたがっていてもいなくても、言い間違えても問題ない、という……。実に、実に! ミーアらしくない合理性だった。
それもそのはず、このロジックを考えたのは、ミーアではない。
こめかみのあたり、幻の眼鏡の位置を直しつつ、ミーアは笑う。
――ふふふ、クソメガネはこんな感じで、えっらそうに、わたくしに言っていたのですわね。ふふふ、気持ちいいですわ。
……要するに、かつて呆れ顔のルードヴィッヒに言われたことを、繰り返しただけであった。いつものやつである。
それから、ミーアは腕組みする。
――しかし、理屈では納得できたとて、それで解決とはなりませんわね。他の手もいろいろと考えておくべきですわ。話すことを原稿化しておいて、当日は、それを読み上げるだけにするとか……。演説の形としてはいまいちかもしれませんけれど、確実ではあるはず……。むしろ、余計なことを言い出さない分、良いかもしれませんわ。
などと考えつつ、さらにクッキーに手を伸ばしかけたところで、不意に、ミーアの肩に手が置かれた。
「ミーアさま……これ以上食べるとお夕食が食べられなくなってしまいますから……」
振り向けば、アンヌの生真面目な顔……。さらに、ふと視線を巡らせれば、少し離れたところに、特別初等部の子どもたちの姿が……。
なにやら、観察するように、ミーアたちのほうをチラチラ見ている。先日、ダンスパーティーで仲良くなったレアのことが気になるのか、それとも、美味しそうなクッキーが気になっているのか……。
いずれにせよ、オヤツの食べ過ぎで夕食を食べられない、などと言う醜態を、見せられるわけもなく。
「ふむ……レアさん、これからお時間はございますかしら?」
「え? あ、はい。大丈夫、ですけど……」
「それはよかったですわ。実は、特別初等部の子どもたちへ、ダンスの手ほどきをして差し上げようと思いますの。少し体を動かしたほうが頭もスッキリするでしょうし、いかがかしら、ご一緒に……」
「あ、はい。わかりました」
素直に頷くレアに、満足げな笑みを浮かべるミーアであった。