第三十五話 ついに……
その日、ルードヴィッヒは、自らの執務室で仕事をしていた。
ミーアの片腕として政治全般に関わるようになってから、ルードヴィッヒの立場は、いささか、微妙なものになった。
未だ、その所属は金月省であるものの、その仕事の幅は、一月省に留まらない。皇女ミーアから全権を委託された彼は、どちらかと言うと皇女ミーア直属の文官と言う扱いであり、小宰相などと呼ぶ者もいるほどであった。
あまりその状況を好ましく思わない者もいたが、ルードヴィッヒとしては構ってもいられない。ミーアの思惑を実現するためには、遠慮などしている暇はないのだ。
そんな彼は、現在、金月省のほど近くに建物を用意し、そこで政務にあたるようにしていた。
表向き、そこは、特別行政区である新月地区の税体制を整えるための、金月省の特命機関という扱いになっている。
後の世に、新たなる月省「紫月省」と呼ばれることになる機関である。
そんな建物に、その日、来客があった。
フォークロード商会の長、マルコ・フォークロード、ミーアの友人クロエの父にして、今は帝国の食料事情を支える重要人物である。
「これは、マルコ殿、しばらくぶりですね」
笑顔で彼を迎えたルードヴィッヒは、挨拶もそこそこに、早速、本題に入る。
「それで、いかがですか? 他国の状況は……どこかで、飢饉の兆候はございますか?」
「いえ。小麦の不作と、それに伴う食料不足の傾向は確かにありますが、それでも、各国ともに持ちこたえている、といってよいでしょう。我々のほうに助けを求めて来る国もございますが……大まかに言えば、食料は足りています。しかし……」
と、そこで、マルコは黙り込んだ。
「なにか、問題がありますか?」
眼鏡を軽く押し上げて、ルードヴィッヒが問う。っと、
「噂は、どこからともなく広まっていくもの。小麦の不作への不安感は、やはり高まっているように感じます」
民衆は食料不足を知らない。できるだけ知らせないように、取り計らったのだ。
流通の混乱が飢饉を生む。それゆえに『普通』の維持こそが肝要、とミーアが方針を定めたゆえである。にもかかわらず……。
「流通が、きちんと動き続ければ、この不作は乗り越えられる。そのようにミーアさまが取り計らわれました。我ら商人はその辺りを肌で直接感じ取ることができるが、人々はそうではありませんので……。だからといって、現状を素直に明らかにしてしまえば、やはり、不安感から暴徒を生みかねない」
「難しいものだ……」
ルードヴィッヒは思わず、天を仰ぐ。
商家に生まれたルードヴィッヒの思考は、どちらかと言えば、商人のものに近い。
数字に忠実な合理主義者、いかに心に不安があれど、理を優先させることができる。感情を、ある程度は客観視し、切り離して考えることができる。
ゆえに、いかに不安であれど、計算によって足りると導き出せるのであれば、それを信じることができた。が……誰もがそうであるわけではない。不安が合理的結論を上回り、略奪が起こりかねないわけで……。
「ミーアさまへの信用、それこそが、おそらくは鍵でしょう」
不安感を上回る、ミーアへの信頼、それさえあれば乗り切れるであろう、とマルコは断言する。けれど……。
「帝国内では、帝国の叡智の名は、すでに知られたもの。だが、ヴェールガ公国並びに、その南にある諸国の民にとっては、まだまだミーアさまの名は遠い、か」
商人たちは、ミーアネットの存在を知り、驚嘆しているものの、人々には直接関係はないのだ。むしろ、食料不足の危機下にあっては、自分たちの港、セントバレーヌから、食料を奪っていく者……と言う見方をする者すらいるかもしれない。
「セントバレーヌが近くにあれば、海産物や海外からの食料輸送も比較的容易だ。彼らは、ミーア姫殿下の恩恵に、直接的には与っていないのです」
マルコの言葉に、ルードヴィッヒは思わず唸ってしまう。
「なるほど。ミーアさまのことをあまり知らない者にとっては、ミーアさまの訴えは、却って不安感をあおるものである、と」
深々とため息を吐いてから、ルードヴィッヒは首を振った。
「遺憾ながら頷ける状況ですね。不安とは、具体的正体のない、されど、放置すれば見る間に大きく膨らみあがる厄介な代物……。さて、ミーアさまは、その辺りをどうお考えだろうか……」
まったく、考えていないはずはないだろうが……。
ルードヴィッヒは遠くセントノエルにいるミーアのことを思う。
「信用を得るのは、容易なことではない。となると、もしかすると、我々が思ってもみなかった方向で、策を練っておられるかもしれないな」
いつだって、ルードヴィッヒらの想像を超えていく。それこそが、帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンである。
「農作物の不作は、もうしばらく続く。ならば、人心の安定は絶対に必要なこと……。どうやって……」
マルコと別れて後、ルードヴィッヒが向かったのは、白月宮殿の大図書館だった。
なにか、ヒントはないものか……。分厚い本を眺めていると……。
「あ、ルードヴィッヒさん」
突然、声をかけられた。視線を向けると、そこには眼鏡の少女が立っていた。
「ああ、君は……確か、ミーア姫殿下のお抱え作家の……」
「はい。エリス・リトシュタインと申します」
エリスは小さく頭を下げてから、
「図書館に、なにか御用ですか?」
「いや。少し考え事をね。君のほうは執筆かな?」
「はい。アンヌお姉ちゃんに、原稿を届けてもらおうとしていたところです」
そうして、エリスはニコリと微笑んで、
「ようやく、一冊分がまとまりました。これならば、本にしても問題なさそうです」
差し出された紙の束……。それは、貧しい王子と黄金の竜の、第一巻の完成原稿だった。