第三十四話 声が届く幸福
レア・ボーカウ・ルシーナに、混沌の蛇がもたらした福音、それは、彼女の餓え乾いた心を満たす肯定感だけではなかった。
彼女を革新的に変え、その能力を飛躍的に向上させたもの、それは「他人とのコミュニケーションなど、一つの駆け引きにすぎない」という、極めてドライな認識だった。
レアは、他人との接触を苦手としていた。
笑顔で会話をしていても、どこか、心から笑えないような……意識的に表情を取り繕っているような、気が休まらないような、気恥ずかしくて落ち着かないような……。そんな感覚が常に彼女に付きまとっていた。
人々の心を癒し、導く、司教の娘に自分は相応しくないのではないか……と、いつしか彼女の胸にはそんな想いが芽生えていた。
そんな彼女の葛藤をさらに大きくしたのは、双子の兄、リオネルの存在だった。
常に胸を張り、堂々と振る舞う彼に、レアはいつでも劣等感と、圧倒的な敗北感を覚えてきた。リオネルはいつでも、レアを気遣ってくれた。兄らしく、レアを守ってくれた。けれど、その都度、レアの心にはじくじくと敗北感が募っていく。
それに、父がリオネルを認めていることも、彼女の敗北感を大きくした。
兄は父の後継者、対して自分はただ『与えられる者』であった。気遣われ、守られる、弱き敗北者であった。
それが、口惜しかった。
与えられるだけなら、守られるだけなら、それなら、いったい自分は何のために、この世界に生まれてきたのか?
そんな疑問が、いつでも彼女の心に付きまとい……されど、彼女はそれを呑み込んだ。
自分より正しく、決して間違うことのない父が、兄が、自分のことを思い、歩くべき道を用意してくれている。それならば、その道を誠実に、一歩も外れることなく歩くことが、自分にできるせめてものことではないか? と。
そんな時、転機は訪れた。
父の思惑に反して、兄が生徒会長選挙で破れたのだ。それは、彼女の常識を揺るがすような、大きな事件であった。
そして……彼女が砕かれた常識を再構成する前に、蛇はやって来た。
きっかけは、セントバレーヌの神殿に持ち込まれた一冊の本。禁書だというその本は、ヴェールガ本国に送られる予定だったものだが……、何気なく、レアはそれを読んでしまった。
そこには、驚くべきことが書かれていた。
「人と人が言葉を交わすのは、交渉のため。相手を自分の都合の良いように動かすため。言葉が、本物である必要はない。相手の言葉から感情を読み取り、最適の言葉を計算によって割り出せ」
その認識は、彼女にとって、紛れもない福音であった。
他者との接触の都度、心を騒がす苦しさも、居たたまれない気恥ずかしさも、自分自身が取るに足らぬ小さな者だという劣等感も、すべてを一歩引いて、客観視することができた。
――そうか。しょせん、失敗したとしても相手との関係が途切れるだけ。成功すれば、相手から有利な条件を引き出せるし、失敗したって、それができないだけ。ならば、なにを恐れる必要があるだろう?
それを足掛かりに、彼女は常識を再構成する。
すべてのことに、意味などないのだ。
司教の娘に相応しくない、と思っていたけれど、そもそも、相応しいも相応しくないもない。そんなこと考える意味もないし悩む価値もない。
そうして、いろいろな物の意味を殺し、殺して、最後の最後に残ったのは、ただ、認められたいという、根源的な渇望のみだった。
それこそが、司教帝レアと言う人の、心の中心だった。
さて、教室で倒れたレアは、そのまま食堂にやってきていた。
医務室に行こうとするミーアたちをレア自身が止めたのだ。
「あの、実は、朝から何も食べていなくって……」
などという口から出まかせを、信じているのかいないのか、ミーアは、
「まっ! それはよくないですわね。それではすぐに食堂に参りましょう」
そんなことを言った。
そうして、食堂の椅子に座り、レアはしょんぼーりと肩を落とす。
――また、やってしまった。せっかく、ミーア姫殿下は、私を見込んで生徒会長に推薦してくれたのに……。
「あの、レアさま、これを……」
気遣わしげな声に顔を上げれば、ミーアのお付きのメイド、アンヌが温かい紅茶を持って立っていた。
「気分が落ち着きますから……」
「ありがとう……ございます」
うつむいたまま、ジッと紅茶を見つめる。優しくしてもらっている。だけど、だからこそ、それを素直に受け取ることができなくって……。紅茶のカップを、ただ手に持ったまま、レアは唇を噛んだ。ふがいない。与えられるだけの自分……。
生徒会長には、やっぱり相応しくない。
レアは意を決して、ミーアのほうに目を向けて……。
「あの、ミーアさま、私は、やっぱり生徒会長には……」
「ふふふ、なにを言っておりますの? 一度や、二度の失敗ぐらい、なんともありませんわよ」
そう言って笑ってくれるミーアだったが、レアの気持ちは、まったく晴れない。むしろ、より深く沈んでいく感じがした。ミーアの期待が重く、苦しい。
あんな失敗をしてしまった自分にはとても、生徒会長なんか勤まりはしない。
レアは、思わず笑いたくなる。
なんのことはない。兄も、父も、正しかった。
きちんとレアのことを考えていてくれていたのだ。考えて、最善になるようにしてくれたのだ。にもかかわらず、自分は……。
「レアさん……。大丈夫、大丈夫ですわ」
「どうして、ですか……? どうして、大丈夫だなんて言えるんですか?」
つい、声が尖ってしまう。失敗したのに、どうして、大丈夫だなんて、無責任なことが言えるのか、と。
「そう……ですわね」
ミーアは、ううむ、っと唸ってから、いつの間にか、テーブルの上にのっていたクッキーに手を伸ばした。それをパクリ、サクリ、むぐむぐしながら、しばし黙考。その後、
「前にも言ったとおりですけれど……補足するのならば、口が上手い人間が生徒会長に向いているとは、思わないからですわ。口が上手く、他者の心に訴えかけるのが上手い者がいたとして、その心が邪悪ならば、かえって、それは将来への禍根になりかねない」
それは、先日もミーアが言ってくれたことだけど、でも……。
「わたくしから、あなたに助言できることがあるとすれば、一つだけですわね。それは、失敗しようと、諦めずに話しかけ続けることですわ」
どこかで聞いたことのある言葉。しょせんは綺麗事。そんなものは、レアの心には響かなくって……。レアは、手に持った紅茶をテーブルの上に置こうとして……。
「相手が、話を聞いてくれる方だということを感謝して、ね……」
その言葉に、手が止まる。
「…………どういう、意味ですか?」
「言葉を通して、自分の考えを伝えることができること、相手がちゃんと聞いて、それを吟味してくれること……それは、決して当たり前のことではない、ということですわ。そして、相手が話を聞いてくれるならば……別に、ちょっと言い間違えたところで構いませんわ」
ミーアの言葉には、不思議な力があった。
それは、まるで……心から語り掛けても、話を聞いてもらえない、そんな経験をしたことがあるかのような、そんな物言いだった。
「でも……さっきみたいなことがあったら、みんなから失望されて……」
その言葉に、ミーアは苦笑いを浮かべた。
「失望されても、取り返せる。あの程度、大したことありませんわ。ただ、もう一度行き直せばいいだけのこと。もう一度、誠実に、伝わるように話せばいい。わかってもらえるように話し直せばいい。それだけですわ」
それから、ミーアは肩をすくめてみせた。
「それで、レアさんの考えを理解したうえで、反対されたら、それは仕方のないことでしょう? それが選挙というものですし。ああ、それと、選挙でないのであれば、きちんと相手の考えに耳を傾けることも必要ですわ。自分の考えを理解してもらい、相手の考えを理解する。そのうえで、最善の道を探ればいいのですわ」
ミーアは、うんうん、と頷いて、
「もう一度言いますけれど、一度、あのように失敗したからと言って、やり直せないなどと言うことは決してございませんわ。焦らなくっても大丈夫。むしろ、噛んだら、照れ隠しに笑ってやればいいですわ。レアさんは可愛いのですし、それも魅力としてアピールできるかもしれませんわ」
真剣に話を聞いていたレアは、急に、可愛いなどと言われて、思わずのけ反る。
「え、あ、あの、可愛いとか、そ、そういうのは……あ、あの……。そ、それより、ミーア姫殿下も、そうされてきたんですか? やっぱり、そんなふうにやり直したりすることもあるんですか?」
レアの知る、ミーアという人は極めて頭の良い人物だ。
なにしろ、自らの父が認め、聖女ラフィーナが友と呼ぶ人だ。そんな人が、間違えてもいいとか、やり直せるといっているのは、もしかしたら、口から出まかせ、ただ言葉だけのことなのではないか、とか……ひねくれた自分が言っていて……。だけど、そう問いかけた時のミーアは、なんとも言えない不思議な表情を浮かべて……。
「ふふふ、そうですわね。わたくしは、未だやり直しの道半ば、と言ったところかしら?」
そうして、ミーアは小さく首を振った。
「あなたは大丈夫ですわ。レアさん。まだまだ、やり直すことはできるし、いつだって、やり直せる。だから、落ち着いていただきたいですわ」
ありふれた言葉のはずなのに……どうして、こんなにも説得力があるんだろう……、とレアは小さく首を傾げるのだった。