第二十五話 その生涯の意味は……
「司教帝猊下……レア猊下?」
遠く、自分を呼ぶ声に、レアは静かに目を開ける。
そこは、神聖ヴェールガ帝国の帝都、司教帝の城、そこにある玉座の間。
煌びやかな玉座に腰を下ろしたレアの前、老齢の男が膝をついていた。
「お休みのところ、申し訳ございません。猊下の寝顔を覗き見るはご無礼かと存じ上げますので」
愛想のよい笑みを浮かべるその男……騎馬王国の民と思しき男は、数年前よりレアに仕える流浪の男だった。
「そうですね。異性の寝顔は、人に、常ならぬ情欲を抱かせるもの。慎むべきでしょう」
清らかな、汚れのない聖女の笑みを浮かべてから、レアは肩をすくめた。
「しかし、その情動すらも使いこなすのが蛇だと言うのなら、それを利用する術も知っておくべきなのでしょうね」
その言葉に、男はニヤリ、と笑みを浮かべる。
「さすがは、レア猊下。実に無駄のない合理的なお考えでございます。しかし……帝国は、なかなかに手ごわいようで」
耳に痛いことではあったが、レアは、特に気にする様子もなく首を振る。
「女帝ミーアは、かの不作の年に、食料を使い人々の支持を集めた情けの人。簡単には行かないでしょう。人は正しい人のために滅多に命を捨てないけれど、情け深い人のためには命を捨てるものですから」
レアは、遠くを見つめて、続ける。
「それに、かの地には聖女ラフィーナもいます。爵位を失ったとはいえ、かつてのヴェールガ公爵令嬢に、忠節を尽くす者も少なくはない、ということでしょうね」
そう、それは仕方のないことなのだ。
レアは、自らにラフィーナほどの求心力がないことを知っている。
だが、幸い、彼女はそれを補う術を手に入れた。
人の心を操る術……綿密に計算された、その技術の粋が書かれた書物『地を這うモノの書』を。
――こんなに素晴らしい書物があるのに、使わずに封印するなど愚の骨頂。なにも躊躇わずに、使えばいいのに……。知識に善悪はない。知恵はあくまでも知恵。人の心を操る術を用いて、人々の信仰心を喚起し、神の尖兵として仕立て上げることに、なんの遠慮がいるかしら?
司教帝レアは合理主義者だった。
ヴェールガ公国も、中央正教会も……天に頂く神ですら、彼女にとっては統治と支配の手段に過ぎなかった。
それに……混沌の蛇もまた、彼女は一つの道具に過ぎないと思っていた。
父が生涯をかけて信仰した神も、中央正教会が恐れ、封印しようとした蛇の知識も、すべてを使いこなせると……自分ならば道具にできると、そう思っていたのだ。
しょせんは、ただの知識。本などただの文字列に過ぎない。なにを恐れる必要があるというのか。
皮肉なことに中央正教会の頂点に立ったレアは、すでに神を捨てていた。
そして、神がいなければ、それが想像上の概念に過ぎないというのなら、知識に善悪はない。なぜなら、人の上に立つ神がいないならば、究極的に善悪を計る、普遍的な物差しがなくなるからだ。
神なき世界において、善悪を判断するのはあくまで「人」であり、一人一人の「個人」だ。それは、レア自身の道徳観、良心に過ぎず、言ってしまえば、ある種の“感じ方”に過ぎない。
誰かが「それは間違いだ」と主張しても、「それはあなたの感じ方に過ぎない」と言い返せるし、「お前の価値観を私に押し付けるな」と撥ねつけることができる。
それは、神はいる、と言っている人たちにも同様だ。「お前たちの神を私に押し付けるな」と撥ねつけることができる。神が存在せず、「“神”が誰かが考え出した概念」である限り、それは、レアに何の影響も及ぼさない。
しょせんは誰かが勝手に信じているモノに過ぎないのだ。
そして善悪もまた、しかり。善悪など、しょせんはその程度のものに過ぎない、と……レアはそう考えていた。
では、善悪がないならば、いったいなにを価値基準とするのか?
レアは、それを便利さに求めた。利便性こそが、レアの思想の中心だ。
その点で『地を這うモノの書』は極めて優秀だった。便利で、使い甲斐のある道具だった。
そしてレアは、その視点でヴェールガ公国の持つ可能性をも洞察していた。
ヴェールガは、神を王として頂く国だ。それゆえ、国の最高権威者は神の司祭にして、王に仕える公爵となる。
その体制ゆえに、ヴェールガは他国に重んじられてきた。
他国の王は神によって、その土地の統治を委託された者だ。その権威は神によるもの。ゆえに、彼らは神を王として頂く国、ヴェールガに敬意と、忠誠を誓うのだ。
では……そのようなヴェールガで、自らを国の頂点である「王」としたら、どうなるか? 神が王の国で、王として振る舞えば……それは、神の権威をその身に帯びることにはなりはしないか?
神として振る舞うことが、できはしないだろうか?
――神聖典に従い、神の権威を用いて民を治めることと、私自身の価値観に従い、神の権威を利用して民を治めることとに差などない。むしろ、こちらのほうが効率的だ。
レアは、すべてを利用する。教会も、神聖典も、すべては彼女の目的を実現するための道具に過ぎない。
――リオネルは、大したことがなかった。お父さまも……中央正教会を正しく利用しさえすれば、権力を手中に収められたのに、どうして、そんな簡単なこともできないのかしら?
あの日、呆気なく生徒会長選挙に敗れ、失意に堕ちた兄をレアは見下した。
その兄を見込んでいた父も、その父が信奉する神すらも、レアの目には他愛ないものに映った。
――ああ、他愛ない。なんて他愛ない人たちだったんだろう?
過去に置き去りにした人たちの姿を瞼の裏に浮かべ、レアは勝ち誇った笑みを浮かべる。
その胸の内を焦がすのは、恐ろしいほどの渇望だ。
――私を認めさせる……。兄が聖女と崇めたラフィーナも、大陸の人々の希望である女帝ミーアも降し、すべての人を跪かせて、そして……。そして……?
彼女の思考は、いつもそこで止まる。
この世で最高の権威を手に入れて――では、その先は?
その先にはいったい、なにがあるのか?
もしも……世界のすべてが自分に膝を屈めたとして……それがなんだと言うのか?
蛇の技術と神の権威さえあれば、そんなもの、手にするのは容易で……。だけど、それじゃあ、いったい自分は何のために生きると言うのか?
父も、兄も、もうこの世にはいないというのに……。
「世界があなたを認めますよ。レア司教帝猊下。あなたこそが神の代理人。いや、あなたこそが、神だ」
蛇は囁く。
その言葉は、さながら強い果実酒のように。ねっとりと甘く彼女を酔わせ、その思考を濁らせる。
「そう……。そうね。ならば、神の敵を滅しましょう。蛇の知恵を用いて、帝国のすべてをからめとり、壊死させてしまいなさい」
神の権威を己が手に、司教帝は突き進む。
己が存在を、ただ認めさせるために。
その先になにがあるのかを知らずに。
その先になにもないことすらも知らずに。
否、その先になにもないことを知っていて、なお、そこから目を逸らして……。
彼女は進み続ける。
その生涯の果てに、あったもの……それは。
「ん……ぅん?」
レアは、小さなノックの音で目を覚ました。
どうやら、予習の途中で眠ってしまっていたらしい。本を閉じ、寝ぼけ眼をこすりながら、ドアを開ける。
「ご機嫌よう、レアさん」
「ミーア姫殿下……?」
突然の来客に首を傾げるレア。そんな彼女に、ミーアは言った。
「実は、お願いがあってまいりましたの」
「お……お願い、ですか?」
警戒心が胸に疼く。目の前の少女は、兄の対立候補。父が苦々しく言っていた人物だ。あまり近づくのは良くないのではないか……っと、思っていたのだが。
ミーアは実に穏やかな笑みを浮かべて、言った。
「ええ。あなたに、生徒会長になってもらいたいんですの」
「…………へ?」