第九十四話 ミーア姫、あざとい笑みを浮かべる
中庭から離れ、ルドルフォン邸に入ったところで、
――やってやりましたわ!
ミーアは心の中で快哉を叫んでいた。ついつい我慢しても、顔がニヤニヤしてしまう。
……ちょっぴり怖い。
十分ほど前、
――あー、すっごく行きたくありませんわー。
ルドルフォン邸に到着したミーアはとっても憂鬱な気分になっていた。必要なこととはいえ、やる気はまったく出なかった。
なにしろ前世の仇敵、ティオーナ・ルドルフォンの生家である。いわば敵の本陣なのだ。
愉快でいられようはずもない。
――適当に時間を潰して、やる気が出たら入ろうかしら。
などと考えていたミーアの目の前に、その少年は現れた。
――あら、可愛らしい子どもですわ。
花を愛でる少年は、まるで女の子のように可憐な雰囲気があった。
「花を……愛でる?」
とたんに、ミーアはピンと来た。
セロ・ルドルフォン。
新種の小麦を生み出したという事は、植物に詳しいはず。
花=植物!
ミーアの脳内で、情報が繋がった!
出来るだけ相手を驚かせないようにして、ミーアはこっそり忍び寄る。
足音を殺し、抜き足差し足、その姿は帝国の叡智とはとても思えない、どこぞのこそ泥のようだった。
そうして、そろーりと接近したミーアは満を持して少年に話しかけた。
「あら……、なかなか素敵なお花ですわね」
ミーアの脳内を、かつて軍師アンヌから聞いた「恋愛術」の話が過ぎる。
「殿方は、自分のした仕事を褒められるととても嬉しいらしいですよ、ミーア様」
「そうなんですの!? ということは、アベル王子の……、お仕事ってなにかしら?」
「なにか、ご趣味でもあるとよろしいんですけどね、やはり馬術か剣術でしょうか」
「なるほど、さすがはアンヌですわ。参考になりますわ」
お忘れかもしれないが、そのアンヌ、恋愛経験は皆無だったりするのだが……けれど、幸運なことに、この時のアンヌの助言は的を射ていた。
ど真ん中だった。
――殿方は、ご自分の仕事を褒められるととても喜ぶ。ということは、このセロという子もきっと自分が育てた花を褒められたら喜ぶはずですわ!
さらに、ミーアは花のそばにしゃがみ込むと、
「これは、月蜜花……だったかしら?」
そう、言葉を続ける。
わたくし、きちんと花の名前にも精通してますのよ……、という女の子らしさアピールと同時に、殿方の仕事に対する理解をも見せていくスタンスである。
……実にあざとい。
――ふふん、これで好感度ゲットですわ。上手く事を運べば、新型小麦はわたくしのものですわ!
アンヌに呼ばれたのをきっかけに立ち上がると、すべてをやり切った充実感に満たされたミーアは渾身のどや顔をセロの方に向け、それからその場を後にした。
「これはミーア姫殿下、遠いところをようこそおいでくださいました」
「初めまして、ルドルフォン辺土伯。ご機嫌麗しゅう」
ルドルフォンのあいさつに完璧な礼で返したミーアは、親しげな笑みを浮かべた。
その顔には、貧乏貴族を馬鹿にするような雰囲気はまるでなかった。
――今まで出会った大貴族の令嬢は、大抵、私のことを見下すような目で見ていたものだったが……。
内心は定かではないが、少なくとも表面上は完全な礼節を保った姫君に、ルドルフォンは感心する。
辺土伯……、あるいは辺土伯爵。それがルドルフォンに与えられた爵位だ。
帝国伯爵というのは、かなりの爵位だ。社交界においても一目置かれてしかるべきものといえるだろう。
けれど、その頭に「辺土」の二文字を付け加えると、途端にその意味は変わってくる。
そもそも、この爵位が生まれたのは帝国の国土拡張政策と深い関係がある。
ティアムーン帝国は建国以来、積極的に領土を広げていった。
未だ国の体裁をとっていない未開地に出ていっては、時に武力により、時に説得により、積極的に自国の領土へと取り込んでいく。
そうして新しく得た領地を、当初、帝国政府は中央の貴族に与え、そこを治めさせようとした。
けれど、もともとその地に住まう者たちの反応が予想以上に悪く、その方針は早々に転換された。
次に彼らは、もともとその地を治めていた権力者をそのまま帝国貴族に叙し、その地を領地として治めさせようと考えた。
この政策は思いのほか上手くいった。統治者の変更による無用な混乱もなく、領地の併呑は順調に進んでいた。
けれど、ある時、問題が起きた。
それは、いくつもの部族を束ねる大部族長を貴族として迎え入れようとした時のことだった。
彼らの治める土地は広く、場所的にも交通の要衝であったことから、帝国としてはどうしてもその地を領土としたかった。
交渉を担当する帝国緑月省は、その所領の大きさ、重要さを鑑みて、大部族長に「伯爵」の爵位を約束し、見事に、かの地を併呑することに成功する。
そこまではよかった……。けれど、問題はその後だった。
中央の貴族たちが猛反発したのである。
「新参者の田舎者を伯爵にするとは何事か?」
そんな彼らの訴えは激しく、緑月省としても対応せざるを得なかった。
中央貴族たちを納得させるには、伯爵より低い爵位にしなければならない。けれど一度、与えると約束してしまったことを覆しては帝国の信用にかかわる。
高級官吏たちが悩み、知恵を絞りあって、なんとか出した結論こそ「辺土伯」の爵位だった。
大部族長には、辺土“伯爵”の地位を与えると言いながら、貴族たちには公然と「辺土伯は伯にあらず」と宣言したのだ。
以来「辺土伯」という新しい爵位が帝国内に誕生することになる。
その扱いは子爵以上伯爵未満という微妙なものだったが、なまじっか「辺土」を冠する爵位ゆえに、中央貴族界からは常によそ者として扱われ、時に最下級貴族である男爵から嘲笑を受けても、それが許容されるような空気が、長い年月を経て醸成されていた。
それは、中央貴族と辺土貴族との間に亀裂を生み、国を割る要因にもなりかねない危険な状況であった。
ともあれ、そのような事情を鑑みれば、ミーアの態度がいかに異例のものかがよくわかる。
ルドルフォン辺土伯は無意識に背筋を伸ばしてから、改めて口を開いた。
「学園では、娘がご寵愛を賜っているとのこと、重ねて感謝を申し上げます」
「いえいえ、寵愛などと、そのようなものを与えた覚えはございませんわ」
「そうですか……。ですが、こちらはお礼を言わせていただきたい」
「なんのことですの?」
「先日の静海の森の件です。ベルマン子爵と話をつけていただきました。心から感謝いたします。ルールー族の者たちの分も合わせまして……」
「ああ、そんなこともございましたわね」
ミーアは、言われて思い出したとばかりに、ポン、と手を打った。
――その件で来られたのだろうに、なかなかお心を見せぬ方だ。
まさか、本当にミーアが忘れていたなどと、夢にも思わないルドルフォン辺土伯である。
そんな彼に、ミーアは可憐な笑みを浮かべて、歌うように言った。
「そんなことよりも、ルドルフォン卿、本日、わたくし、あなたに提案があってきましたの」
「……ほう、提案、ですか」
ルドルフォンは姿勢を正し、ミーアの方を見た。
――姫殿下は先日の件で、ベルマン子爵とのバランスをとるためにいらしている。ということは、さほど悪いことにはならないと思うが……。
かといって、単純な提案がなされるわけでもないだろう、という予感があった。
相手は帝国の叡智、森の件では、すまなかったから、金貨数百枚を渡そうなどという話にはならないはず。
――なにか、私の思いもよらぬ提案がなされるはず。
この上もなく高い期待値が設定されていることに、気づくことなく、ミーアは静かに口を開いた。