第十四話 卒業式 三視点
厳かに、オルガンの音が鳴り響く。
セントノエル学園の大聖堂。音響を最大限に生かせるよう設計されたその建物は、それ自体が巨大な楽器のようなものだった。
それは、秩序と計算の粋、建築学の極致。混沌の蛇が作り出す建物とは、対極の位置にある建物であった。
その計算には聴覚だけでなく、視覚的な効果も入っていた。
横に並んだ聖像や神聖典を元に描かれた聖画。さらには、日光の角度を計算して作られた窓からは、燦然と照り輝く日の光が降り注いでいる。
そして、そんな大聖堂が最も美しい姿を現わす日こそが、本日の卒業式であった。
この日は、いつも閉じている上方の窓も開け放ち、聖堂の中は、まさに、天におわす神の宮を思わせる威容を現していた。
やがて、前奏のオルガンが終わる。
式の始まり。司教の開会を告げる声が高らかに響き、それに引き続き、聖女ラフィーナが呼ばれる。
彼女は卒業生代表として、ヴェールガ公爵令嬢、聖女として、本来であれば生徒を代表する生徒会長として、話をする立場であった。
儀礼用の純白のローブに身を包み、ラフィーナが壇上に上がる。
静かに瞳を閉じ、心の中で祈りをささげてから、ラフィーナは目を開けた。
「今日、この日を迎えられたことを、まず、神に感謝を……」
穏やかな祈りの言葉……その瞬間、奇妙な感覚がラフィーナを襲った。
この言葉を言うのが初めてではないような、そんな気がしたのだ。
その日は、灰色の日であった。それは、世界が暗雲に包まれた歴史の一幕。
この大聖堂に人の姿はなく、卒業式の式典も開かれずに……だから、もしかしたら、事前練習の時の記憶だったのかと、一瞬錯覚する。
けれど、違う。確かに、それは卒業の日の記憶であったと、ラフィーナの深い部分が告げていた。
その日……紛れもなく卒業式の日に、ただ一人、ラフィーナは誰にも聞かれぬ祈りをつぶやいた。
「今日、この日を迎えられたことを、まず、神に感謝を。そして、大陸に蔓延する疫病と、飢え渇いた人たちに救いの手を、どうか伸べてくださいますように」
誰もいない大聖堂。無力感の内に、ただ心からの祈りをささげる。
一心に祈りをささげ、そして目を開けた時、目の前に広がっていたのは――底知れぬ孤独の風景だった。
息を呑み、今見た記憶を吟味する。そんなラフィーナに、別の光景が思い浮かぶ。
「今日、この日を迎えられたことを……」
自分に向けられた多くの視線、そんな中、祈りの声が、かすかに震える。
無事にその日を迎えられなかった生徒たちの顔が、ラフィーナを責め苛んでいたからだ。
苦しみ、もがきながら死んでいった者たち……その顔を忘れてはならないと、心に刻んだ。それなのに、今日を迎えられて感謝? そんなことをどの口が言えようか。
なぜ、守ってくれなかった?
なぜ、このセントノエルで、あんな悲惨なことが起きた?
なぜ、私は、あれを止められなかったっ!?
いくつものなぜが頭を埋め尽くす。そんな中、拠り所を探して、ラフィーナは会場に目を移す。そこには、自分を支えてくれたただ一人の友、ミーアの姿があった。
……ああ、そうだ。
彼女と……大切な唯一無二の友人と出会えた。それは、確かに感謝すべきことであった、と。
ただ、それだけのために、ラフィーナは言う。
「神に、感謝を……」
ただ一人、自分を、聖女としてでも公爵令嬢としてでもなく、ただ一人の友として慕ってくれた人のために。ラフィーナは感謝をささげた。
――今のは、いったい……。
再びの、記憶の混乱。ラフィーナは、酷く心を乱された自分を見つける。
目の前を過ったのは二つの記憶。
誰にも心を開くことなく、無為に学園生活を送り、孤独に卒業していく記憶。
ただ一人の友のみを頼り、責任はすべて自分で負い、擦り切れた心で卒業していく記憶。
その悲しく、空しい記憶を思い……、ラフィーナは、改めてこの場に集う生徒たちに目を向けた。
自分と同じく卒業していく同級生たちがいた。
入学時、聖女ラフィーナに対する接し方をする彼らは、どこか遠かった。自分にかけられる声にも、笑顔にも、どこか距離を感じたものだったが、いつしか彼らは、親しき友としてラフィーナに接してくれるようになった。
ミーアを友としたあの日から、すべてが変わりだした。
――今ならば、わかる。入学式の日に距離を取っていたのは、むしろ私だった……。私が遠ざける笑みを浮かべ、遠ざける声で話し、遠ざける態度で接した。だから、彼らは私の友となってくれなかった。
けれど、今は……。
ラフィーナは改めて、自分と同じくこの学園を卒業していく生徒たちを見た。そして、生徒会のメンバーを見た。
ラフィーナには……たくさんの友がいた。
個人的な友人もいた。ラフィーナを一人の人として扱ってくれた人たちがいた。
そして、聖女でもあるラフィーナと、友になってくれた人たちもいた。
いろいろな彼女を受け入れてくれる仲間たちがいた。
そんな仲間たちとの日々を、今、ラフィーナは心から感謝し……口を開く。
「神に感謝を……。素晴らしき仲間たちを、素晴らしき、このセントノエルの日々を、神に感謝を……」
不意に……声が震える。
え? と思った次の瞬間、その頬を涙が伝い落ちた。
――なぜ、私は、泣いているのかしら……?
ラフィーナは、自らが泣いていることに気付き、戸惑いの表情を浮かべた。
だって、この上もない学園生活だったはずだ。
充実し、実り多き日々だったはずだ。
紛れもなく、自分は満足しているはずだ。
陰ることのない、黄金のような日々を過ごし、今ここに立っている。
思い残すことなどなにもなかった。
後悔も、憂いもなにも……何一つなかった。
ただ……そんな学園生活が終わってしまうことが心の底から悲しくて、寂しかった。
――ああ、そう……。私は、心からこの学園のことが、セントノエルのことが好きだった。
思い出す、その一瞬、一瞬が輝いていた。
ミーアたちとの、仲間たちとの、セントノエルの優しい人たちとの、その日々は、ラフィーナにとって、この上もなく愛おしいものだったのだ。
溢れてくる想いが抑えきれなくて、ラフィーナは泣いた。
息が、胸が苦しい。口からこぼれる嗚咽を抑えることができなかった。
けれど……そんな彼女に手を差し伸べられる者はいなかった。
今は儀式の真っ最中だ。それを中断することなど、誰にできようか。
みな心配そうな表情を浮かべながらも見守ることしかできない。
選ばれし聖女の出番に、割って入ることなど誰にもできず……だから、誰も彼女を支えることはできないのだ……そのはずだった。
少なくとも、彼女が幻視した、消えた世界たちにおいては。けれど……。
「ラフィーナさま……」
ふ、と自分の頬に、柔らかな布が当たるのをラフィーナは感じた。
涙でかすむ視界、そこに見えたのは、彼女の一番の友だちの姿で……。
「ミーア、さん……」
かすれた声で、ラフィーナは言った。
頭の中、卒業式を台無しにしてしまったという焦りが渦巻く。
生徒会のみなが用意してくれた卒業式を、自分の手で台無しにしてしまったのだ。どうしよう、どうしよう……と、混乱しつつ、ラフィーナは言った。
「ごめんなさい。私、私は……」
半ばパニックに陥るラフィーナに、ミーアは無言でハンカチを押し付ける。ラフィーナは、静かに自分の涙を拭う。そうしている内に、少しずつ自分を取り戻していく。
――大丈夫、まだ、大丈夫。私は聖女だ。みなの前で胸を張り……顔を上げて話しだそう。大丈夫……大丈夫。
小さく息を吐き、気持ちを落ち着けてから、ラフィーナはミーアに笑いかけた。
「ごめんなさい。ミーアさん。もう、大丈夫。少し取り乱してしまったわ。このハンカチは洗って……え?」
ラフィーナの言葉を途中で遮り、ミーアはそっとラフィーナの手を握る。それから、その手からハンカチを取り返してしまった。
呆然とするラフィーナに、ミーアは優しく微笑んで……。それからハンカチを持ったまま、生徒たちのほうに向き直った。
「え……?」
誰もが驚きの視線を向けてくる中で……ミーアは高らかに言った。
「今ここに、ラフィーナさまの……惜別の涙に濡れたハンカチがございますわ」
そう言って、ミーアはそのハンカチを捧げ持つ。
「これは、ラフィーナさまのセントノエルに対する想いの結晶。セントノエルのこれからを思い流された深いお心ですわ。ですから、わたくしは、このラフィーナさまのお気持ちを、今ここで引き継ぎますわ!」
そう言って、ミーアは、ハンカチを自らの腕に巻いた。
それは――あの日の、あの光景を彷彿とさせるものだった。
生徒会選挙の時のラフィーナの行動、ぶどう酒に濡れたベールを自らの腕に巻くという行動を。
それから、ミーアはチラとラフィーナのほうに目を向けた。
その瞬間、ラフィーナにはミーアの意図するところが、はっきりと伝わった!
表向き、ミーアがしたのは「ラフィーナの志を受け継ぐ」というメッセージをみなに伝えることだ。それを見えやすく、象徴的に全校生徒の前でやってみせたのだ。
けれど、ラフィーナは覚えていた。自分がそれをした時に、なんのためにしたのか? ということを。
ラフィーナは、ミーアへの支持を表明するために、ミーアの応援団がしているのと同じことを、やってみせたのだ。
ミーアを支持するために、やったのだ。であるならば、ミーアが今してみせたことは一体なにか?
それは……。
――私を、支持してくれていると、そういうことなの?
ミーアは、形で示そうとしているのではないか?
ただ一人、みなの前に立ち……心を揺さぶられることなく、完璧に儀礼をこなす聖女ラフィーナではなく、この、感情を揺さぶられ、人目をはばからずに涙を流すラフィーナを……支持すると……。
今の、ありのままのラフィーナを自分は支持していると……改めて言ってくれて、背中を押してくれているのではないだろうか?
それを認めるように、ミーアは、ちょっぴり困ったような顔で笑っていた。
そんな顔で見つめられるのが、ちょっぴりくすぐったくって、それでいて、とても嬉しい。
「ミーアさん、ありがとう……」
自然と、言葉がこぼれ落ちる。
胸がいっぱいになり、再び泣きそうになるラフィーナだったが……それを堪えて、飲み下す。
感情を抑えられず泣き出してしまうのも自分であれば、それに耐え、立ち上がるのもまた、自分であるから。
ありのままを認めてくれる人がいるからこそ……そこから前に歩き出せる。
ラフィーナは、卒業というこの日に自らの立っている場所を確かめ、そして、そこから歩き出そうと決意した。
「私には、共に歩く人たちがいる。だから、歩いて行ける……」
それは、聖女ラフィーナの今後の生き方を決定づける、そんな瞬間であった。